2009年7月17日金曜日

「人に永遠の命を得させること」と感情

人に神の福音を伝えようとするとき、私達は或いは いろいろな
方法を用いて感動を与え、キリスト教に対する興味を持たせようと
するかも知れません。また人に過去を悔いさせ、悲しませ、
恥ずかしく思わせ、そのようにして来るべき裁きを恐れさせようと
努めるかも知れません。更に人にキリストを賞賛させ、そして遂には
他のキリスト者と接触することを願わせることに成功するかも知れません。
その時その人はもう素晴らしいキリスト者のように見えることでしょう。

しかしそれだからと言って、その人が再生(新しい永遠の命を受けること)
を受けたわけではありません。興味、後悔、悲しみ、恥ずかしさ、恐れ、
賞賛、願望、あわれみ、喜びなどを感じさせることに成功したとしても、
それらは単に種々の感情の作用に過ぎません。人はそれらの全部を
体験したとしても、依然として彼の霊は死んだままなのです。

何故なら、彼はまだ「新しく生まれて」はおらず、彼の「霊の直覚
において」神を知ったのではないからです。それらは総て感情の作用に
過ぎないのであり、それらが真の再生を証明するわけではありません。
再生の現れとは、人の霊が生きること、霊が生き出すことであり、
再生された人の直覚において神を認識する(神を知る)ことです。

もし私達の目的が人々に「キリストの命を得させること」であると
分かっているなら、むしろ感情を用いて彼らにキリスト教を認めさせ、
キリスト教に好感を持たせようなどと試みるべきではありません。

人は本来神の命に欠け、その霊は死んでいること、それ故に「人の霊を
新たに生かすこと」こそが真の必要であることを私達がハッキリと知る時、
自分自身に頼ってなされる働きは総てむなしいことを認識するでしょう。
どれ程人が変わったとしても、それは その人の「自己と言う範囲」の中で 
ある変化が起こったに過ぎません。彼はその範囲を一歩も出たわけでは
ありません。要するに彼は感情に与えられたある感動によって
生来の「彼の魂の中で」ある変化をしたに過ぎないのであり、
彼の霊に決定的に永遠の命が分与されたのではないのです。
それだけでは神の御前においては何らの価値もありません。

ですから「霊的目的には霊的な方法を必要とする」という事実を
私達が真に見る事が出来ますように。私達の霊的な目的は
人々を再生させることです。それ故私達が働くとき、
ただひたすら「霊的な方法」に頼るしかない筈です。

☆    ☆
再び「感情」の総論に戻って来ました。

3 件のコメント:

ヴィオロン さんのコメント...

Sugarさん、初めまして。ヴィオロンです。LukeさんのブログでSugarさんの存在を知って以来、2年程前から、毎日のように貴ブログ読ませていただいていました。

Sugarさんの記事は、私が教会からエクソダスする大きなきっかけをくれました。その他の面でも、これまで沢山の気づきをいただき、本当に感謝しています。にも関わらず、長い間、ご挨拶もしなかったご無礼、お許しください。

ところで、私は近いうちに、友人と共にSugarさんの山小屋をぜひ訪れることができればと願っています。一度、ぜひSugarさんとお会いしたいとずっと前から思っていたのです。もしよろしければ、直接、ご連絡を取らせていただきたいのです。ご迷惑でなければ、ぜひkuznets@live.jpまでアドレスをお知らせ下さればと願っています。

Sugarさんのご健康とご家庭の祝福を祈ります。

武州乃鳩 さんのコメント...

個人的にタイムリーな記事が多いのですが、今日の内容は、特に考えさせられます。

クリスチャンという方々を見ていて、「キリスト教」に感化されているだけではないのか。本当に「再生」されているのだろうか。そう疑問に思ってしまうことがたびたびあります。

私自身、外見からそう思われるクチのようですが...。

Mr.Sugar さんのコメント...

ヴィロンさん、了解しました。


鳩さん、
ホンとにそうですね。

私自身、真の福音のあり方を

重く考えさせられています。

ところで、

聖書に出てくる福音は 

殆ど「御国の福音」なのです。

イエスもヨハネもパウロもそうです。

御国の福音は(今日の「恵みの福音」は

含むのですが)更に深く広範囲なもの

のようです。この宣べ伝えには

相当の「力」、

神の力が要るに違いありません。