今回は 大胆にある類推をして見ることにします。
それは以下のようなものです。
先ず 幸か不幸か「礼拝する」と訳されてしまった所の
「①奉仕する②おじぎする③仕える④求める⑤ひざまづく⑥ワンちゃん
が 主人を慕うように慕う愛する」と言う幾つかのキリスト者の行為の
間に何か相互関係のようなものがないのだろうか、と考えて見たのです。
そして、そこから得た結論はこうです。
まず⑥の「慕い愛する」がなければならないこと、もしそれさえあれば
その結果としてキリスト者の生活に①~⑤は自ずと現れるものである、
と言うことです。
私たちが
真に神を慕い愛する時にのみ初めて、私たちは更に神を「求め」、真に
神に「仕え、奉仕し、ひざまづき、おじぎ」できるのです。この優先順序は
大切です。天的愛があって初めて天的エネルギーが湧いてくるのです。
愛がなければ、人は、そして神でさえ何もなし得ないのです。(例えば
人に対する父と御子の深い愛が存在したが故に、創造と贖いの御業が
それに続いたのです。)従ってキリスト者が「神を愛し慕うということ」が
この礼拝問題のキーと基本になるように思われます。
ここで思い出すのが
「最も大切な戒め」についての主イエスの言及です。彼は言われました:
第一の戒めは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなた方の神
である主を愛せよであり、第二の戒めはあなたの隣人をあなた自身
のように愛せよである、と。(マタイ22の37~40)
ここで私は補足したいのですが、
この「あなたの隣人」とは一体誰でしょう。この復活の時代 私たちに最も
近い隣人は他ならぬ私たちに内在する主イエスです。従って父なる神を
慕い愛することが第一であり、次にこの内住の主イエスを自分自身
のように愛すること、ガラテヤ2の20的に言うならば
「真の自分」即ち「一つ命を主イエスと共有する自分」或いは「私と一つに
なられたキリストと言う自分!」を真に愛することが 第二の戒めなのです。
「あなた方の
寛容な心を、総ての人に知らせなさい。主は近いのです。」(ピリピ4の5)
主が私と一つとなるほど近くなられたからこそ、その主が私を通して
他の人々への寛容となり得るのです。これのみが私たちが 多くの隣人を
愛する唯一つの方法です。
いずれにしろ、
父と子を慕い愛すること、それが人の最高の栄誉・特権であり、
総ての基本です。ここにこそ「礼拝は24時間」を解く鍵がある
ように私には思われるのです。
6 件のコメント:
そうですね。犬はお手だの待てだのいろいろな奉仕をしてくれますが、それはいちずにその主人を愛しているからでしょう。私と何も関係ない野犬がそんなことをするはずがありませんから。
とても分かりいい例証を有難うございます。
それにしてもワンちゃんの主人に対する
愛がキリスト者の神に対する愛の例証に
用いられているとは!
確かにワンちゃんの目の純粋さと一途さ、
学ぶべきですよね。
ああ、雅歌に
「はとの目」が出てきますよね。
(5の12)
確かヘブル書のどこかに見えるものは見えないものから出てくるといった言葉がありますが、①奉仕する②おじぎする③仕える④求める⑤ひざまづくなどのキリスト者の行為は⑥ワンちゃんが 主人を慕うように慕う、キリスト者の神に対する愛という目に見えないものから出てくるというのが信仰生活の法則なのではないでしょうか。
また、2ペテロの1節でペテロは自分はキリストのしもべ、(英語ではa bond servant=奴隷)だといっていますがこのキリストとの甘い愛の関係があったからこそ彼はあれだけの働きをすることができたのでしょう。
御父が御子を愛し
御子が父を愛しておられたが故に
創造と贖いの御業が 御子にとって
可能であったのだ、と私は思っております。
ですから一例をあげるならば
今この宇宙でさえ、御父と御子の
愛の故にその存在が成り立っているのです。
愛が総てのもといです。そして
その神の愛が
私達の内側にさえ届いたとは
何と幸いなことでしょう。
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