A姉妹:
今回の集まりでは、キリストの体について教えられました。
キリストの体は、教会と表現されたり、またブドウの木にたとえられたり
します。しかもそれは有機的なものなのです。でも、これまでの私はそれを
よく把握しておりませんでした。
ある兄弟は以前から「一肢体が自分の十字架を負って、自分を死の
立場に置くなら、その人に復活の命が現れると同時に、必ず他の肢体にも
命が流れて行くものである」と語っておりました。それを何回も耳にしながら
これまで 私はそれをつかむことができなかったのです。
今回、改めてそれが語られ、キリストの体の一肢体としての自分のあり方が
正に一新したのです。即ち自分を真に有機的な体の一部分として
位置づけることができたのです。
感謝します、距離的には相変わらず兄弟姉妹から遠く離れた所に一人
ぼっちでいる私なのですが、 たとえ離れていても、私はからだの他の部分と
有機的なつながりを持つ一肢体である との意識に変わったのです。
更に今回、たとえ信者が、「キリストが達成してくださった客観的な立場」は
持っていても、それだけで終わってしまっている場合があり得ると言うことが
分かりました。自分だってその例に漏れないものですが、キリストの体の
一肢体として、有機的に他の肢体に影響を及ぼさざるを得ないからだの
一部分として、 死と復活を主観的に経験をして行くべき責任があることを
今思わせられています。自分を一人ぼっちだと思っていた時と比べて、
今とても 気が引き締まる思いがするのです。
とは言っても、1肢体としてのあるべき姿とは ただ自分の十字架を
負うことなんでしょうね。これこそ他の肢体に命を流し出すコツですものね。
私はよく失敗をする者ですが、キリストの血により頼みながら、自分を死の
立場に置き続けて行きたいと思います。
☆
B姉妹:
A姉妹のメールを読み「教会=有機的キリストの体」でよいのだと、すっきり
いたしました。キリストの体は有機体なのですから、体に血液が流れている
ように十字架を経た復活の命は他の体の部分にも流れて行くのですね。
いや~これはホンとに嬉しいことです。
それにもう一つ
「信者が キリストが達成してくださった客観的な立場は持っていても、
それだけで終わってしまっている場合があると言うこと。」 これですよ!
私はどうもこの部類なんですね。本当に他の体の部分に影響を
及ぼさざるを得ない体の一部分としての経験と認識、これが私にとって
希薄なものであったことに気付かせていただいたのです。
こうしたメールでのやりとり、遠距離のため私達は顔を合わせる
こともあまりありませんが、しかしこのやりとりも
有機的キリストの体の交わり なんですね。
当然また十字架を負う立場、この自分の死の立場も忘れないで
行きたい と願わされております。
☆
C兄弟:
キリストという一本の同じ木の中に 多くの兄弟姉妹が留まっているという
事実を信じることができる神の恵みに、ただただ感謝です。
1 件のコメント:
『親愛なる友よ、わたしに一つ質問させてください。あなたが知っておられるキリストは肉体の中のキリストですか、それとも聖霊の中のキリストですか?言い換えれば、あなたのキリストは四福音書の中のキリストですか、それとも書簡の中のキリストですか?わたしはあなたに四福音書のキリストを信じるべきではないと言っているのではありません。それらの中の彼を信じるのは正しいです。しかし、それは最初の半分だけです。その聖霊の中のキリストを知り、また経験するという後の半分があるのです。』(by W.ニー)
「信じる者に働く神のすぐれた力(エペソ1:19)」、この力を実際に引き出し、この聖霊の中のキリスト、この実際のキリストを多くの兄弟姉妹がますます経験しますように、アーメン。
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