2008年8月3日日曜日

「いわゆる礼拝」は新約聖書のどこに?

日本人が
礼拝ときいてイメージするものは「拝むこと」です。日本人の キリスト者
が礼拝と聞いて思い浮かべる情景はあの「主日礼拝」即ち 最も権威ある
集会とされ「それを守らない者は不信仰者に近い」的な 集まりでしょう。
以下それを「いわゆる礼拝」と呼びます。

今日
いわゆる礼拝はこの日本でさえ 津々浦々において「守られて」おり、
それは明らかに「日本キリスト教」におけるメインな集会です。仮にもしも
それが崩壊するようなことがあれば総ては存続不可能と思えるほど
「日本キリスト教」はそれを中心に回っていると言えるでしょう。
牧師と礼拝堂(チャペル)を伴ったいわゆる礼拝が
今日の「キリスト教シーン」であることは明白です。

それでは2千年前、
パウロ、ヨハネがいた時代、どこにそのようなシーンがあったのでしょう。
もしも今日の様ないわゆる礼拝が「神の御旨」であるとするならば、その
いわゆる礼拝は、使徒行伝のあちこちに出て来なければならない筈です。
新約聖書全体を隈なく探してようやく一箇所あった、ではなく、
そのシーンは頻繁に出て来なければならないのです。

ここである人は
「新約聖書の時代はそれに至る過渡期であったのだから まだだったのだ」と
言うかも知れません。仮にそうだとしても 少なくとも使徒行伝や書簡に
おいて「日曜礼拝は神の御心の中心であるから、ゼヒとも我々はそれに
向かってまい進しようではないか」と言った使徒たちの強い主張や
そのような機運が確実に見られる筈です。(チャペル建築や牧師の活動の
記録が一つ位 出て来てもよさそうなものではありませんか。)

しかしながら
そのようなシーン(①牧師②礼拝堂③主日礼拝と言うセット)は
新約聖書のどこにも出て来ない、と私は思います。
しかしあなたはどう思われるでしょうか。新約聖書に「それはここでは?」
と言う箇所があるならばどうぞコメントをお寄せ下さい。一緒にベレヤの人々
のように「はたしてその通りかどうかと聖書を調べ」て見ましょう。

私達は
単に知識を得たいとか論争をしたいのでは決してなく、ただ神の御心を
誤解したくない、唯御こころが何であるかを正確に知りたい、だけなのです。
もしも「あのシーン」の隆盛が神の御旨であることが明らかになるならば、
私は直ちにそれに従うことでしょう。

7 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私たちの心の最も秘密の場所には、誤った願望があります。それは神が私たちのために何かを行ってくださることを願うことです。しかしながら、神は私たちのためには何も行われません。私たちが神に何かを私たちのために達成してくださるよう求めても、残念ながらこれは絶対に起こりません。私たちは、神がキリストの中ですでに達成されたことを受け取ることができるだけです。神は私たちの中で何かを成されるのではなく、キリストの中ですべてを成されたのです。ではどうするか?それは、「私はキリストの中にいる」「私とキリストは一つである」ということを信じる信仰を持つことしか方法はありません。これが最大の信仰であると思う今日この頃です。

Mr.Sugar さんのコメント...

ただ、アーメン。主に感謝です。

匿名 さんのコメント...

Dr.K氏のコメントに、私もアーメンです。

御子を与えてくださった父のもとには、もう何も残っていない。そう思います。

もっとくれ~。油を、祝福を・・・というクドくシツコい祈り対して、父は悲しみのうちに絶句されるしかないのでは。

お会いできるのが楽しみです。

礼拝に関するSugarさんの指摘は、いつもながら実に的を射たものだと感じます。

キリスト教は、みことばにないことばかりやっているわけです。誰かがメッセージして、ワンランク下の者たちが拝聴するなんてのは、暫定的な必要はあったとしても、不自然で主が望まれるスタイルではないです。

霊とまこととは、もっと深くて甘い内容を指していると信じています。

天上において、今みたいな礼拝が延々続くとしたら、地上にとどまりたいくらいです。

匿名 さんのコメント...

失礼しました。Dr.K氏とmさんは別の方ですよね。きっと・・・

千葉で思いこんで書いてしまいました。

ごめんなさい。

すばらしい兄弟がたくさんおられるのが嬉しいです。

匿名 さんのコメント...

あわてて書くとダメですね。匿名になってしまいました。

ふたつの匿名コメントは奈良のSaltでした。

Mr.Sugar さんのコメント...

楽しいやり取り感謝です。

私も今朝になって

ようやく皆様の会話の全貌が

分かって来ました。


「見る目」を持つ兄弟達が主によって

更に起こされんことを。

Mr.Sugar さんのコメント...

御子さえ与えて下さった御父の手元に

もう何も残っていない、

ホンとにそうだ。

ただ感謝です。