2008年12月17日水曜日

霊融合

聞く所によると、
ある物質の分裂(1→2の原則)は相当のエネルギーを発散するが、
汚染等の恐ろしい弊害を持つのに対して、物質の融合(2→1の原則)
にはその恐れは無く、何と融合から生ずるエネルギーの実用化には、
或いは人類の未来の希望がかかっているかも知れないとある識者達
(あのルーク氏も)は考えておられるようです。


さて神の「命の息」が人の体に吹き込まれた時に人は生きた魂となった、
と創世記2の7は告げています。従ってその命の息こそが人の霊であると
考えられます。(しかし、この段階においては人は神の命そのものを
所有したわけではありません。)

しかし後に、キリストは「命を与える霊」となられ(Ⅰコリント15の45)
弟子たちに「息を吹きかけて・・聖霊を受けよ」と言われました。
(ヨハネ20の22)従ってここに、人の霊の中に永遠の命である
キリストの霊、聖霊が入り込み二つの霊が一つに融合したと言う驚くべき
事実を見るのです。このことをパウロも「主と交われば、一つの霊となる」
(Ⅰコリント6の17)と断言しております。

従ってキリスト者とは「少なくとも霊の部分においては何と
神と一つになっている存在」であると言えるのです。
これこそ、正に途方も無い主張ではないでしょうか。しかしながら聖書を
神の言葉であると信じる人であるならば、このとてつもなく見える言葉
でさえも信仰によって受け入れることが出来る筈です。(その完全な知的
理解は不可能でしょう。しかし、信仰の後にその実感を
体験することは可能なのです。)
さて、もしもこれが事実であるとするならば、
更に幾つかのことが言い得るでしょう。

・今やキリスト者の霊は復活のキリストの霊と一つである故に、
そこは完全に「聖域」(至聖所)であり、神の敵が
入り込むことは全く不可能であることです。
ただしキリスト者の霊に対してさえ、外部からある影響を間接的に
与える可能性は排除できないかも知れません。しかしこと人の「魂や体」
に対しては悪しき霊は直接的な関わりを持つことが可能です。
福音書はまた、悪しき諸霊が動物や物質(水中など)に入り込む
と言う事例をも見せています。

・二つの霊が融合して、一つになった霊には膨大な(実は無限の)
エネルギーと能力が秘められております。
しかしながらそのエネルギーの表れは決して爆発的なものではなく、
生命現象的に現れます。従ってそのエネルギー、命の表現には必ず
美しさ、他のものとの調和、静けさ等が伴うのです。それはあたかも、
核分裂のような破壊的凄まじいエネルギーによって焦土と化した大地も
いつの間にか、静かな生命のエネルギーの多種多様な出現によって
覆われてしまうようなものでしょうか。

・最後に「一人一人のキリスト者がこの上なく重要である」ことが
指摘されます。なぜならば上記のようなエネルギーを内に秘めているのは、
一人一人総てのキリスト者であるからです。そこには例外はありません。
従って「一人の有能で魅力的な人物の周りに多くの人々を付着させよう
とする」キリスト教に普通に見られる図式や動向に対して、
聖霊が同意する等と言うことは決してあり得ません。何故なら、
そこには一人一人のキリスト者が持っている天的で聖なる命、エネルギーを
抹殺してしまおうとする敵の意図がアリアリと明白であるからです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

アーメンです。「わが内に主はいます。くすしくもたえなり、わが内にいます主は、来たるべき王なり。」とか、「キリストは、生きておられる、わが内におられる、すべては主のみてにあり」などという讃美がありますが、この賛美は大好きです。私のようなものの内にもいてくださる主、感謝です。
 創世記1:7は、タイピングミスのようです。私は、シュガーさんの文章内容が大好きです。

Mr.Sugar さんのコメント...

創世記は2の7でした。
御指摘感謝です。

私の内に主がおられる、
何たる事実でしょう!こう書いている内に
何だか心が暖かくなって来ましたよ。

あした山に向かいます。
今回は1週間だけですが・・

今何だか、寒さがこわいです。
なぜかな?