今朝(けさ)の山:
春のような暖かい陽光がさんさんと降り注ぎ、
正に気持ちのよい阿武隈の師走です。
今回19日に、一緒に山に入ったケンが、昨晩から今朝にかけて
精神的に「悪い底を打った」という感じがすると、今朝一番に
嬉しそうに私に報告してくれました。これは、或いはとてもよい
キザシなのかも知れないと私も大層喜んでおります。
しかし実は私自身も、これから一つのコーナーを(いつの日か!)
首尾よく曲がり切れるといいな、と真面目に思わせられているのです。
*
キリスト者はいつまでも肉と罪(そして「この世」)の奴隷状態に
あるべきではありません。即ちそれは、私達の魂が肉と罪から
自由にされると言うことですね。
しかし、更に何と「私達の霊」は「私達の魂」からも自由にされる
必要があるのです。なぜなら、もしそうでないと「私達において」
キリストにある神はこの地上で大きな制限を受けることになるから
です。そしてキリスト者も本当を言って真の自由を享受すること等
絶対にあり得ないだろうと私は心底思っているのです。
*
しかし、この問題は実は極めて見えにくいのです。
実はこの数日、この問題が改めて私の前に浮上し、と言うか、
私自身にとって正直この問題があまりに大きく解決不可能にさえ見え、
それに全く打ちのめされていた、と言った方が正確かも知れません。
キリストの十字架は旧創造の一切を解決しました。しかし、
私達はそのキリストにある勝利の事実を今この時空において証明し、
神への信仰と従順によって、今この私達の環境において追体験する
必要があるのです。(それはおもに、神の敵の故です。)
しかし、そのあまたの旧創造に含まれる事項の内、この「魂の命の問題」
(魂の性質や機能ではなく)ほど無視されている重大な問題はありません。
何故ならそれはとても見えにくいからです。見えていないのだから、
人々にとってそれが問題視されることなどある筈がありません。私は
そのようなコメントや声をこの数年、或いは数十年間どこからも殆ど聞いた
ことさえ無いのです。だからなおさら、この問題の深刻さ、
困難さがあると言えるでしょう。
26日に下山する予定です。
話が中途半端ですみません。
6 件のコメント:
おはようございます。
日常の出来事の中で、主が私たちとかかわってくださり、あらたな恵みの門を開こうとされていることを感じています。
「歓迎の門が大きく開かれている恵みのと きに、あなたの叫びはわたしに 届い た。救いが差し出されている日に、
わたしはあなたを助ける。」
2コリ6:2
古い私は死んだ。私が今生きているのは、キリストを信じる信仰によるのです。
病気もイエスの支配下にあります。イエスの
御名によって「癒されよ」と命ずるなら、そのようになる。と書かれています。 そして
罪があれば、罪も赦される。 しかし、ふたたび罪を犯さないように。もっと悪いことになるから。
全てにおいて 主の助けを求めること。
なぜなら、「イエスに信頼するものは、失望させられることがないから」です。
獰猛な野獣、バビロンよ。
今におまえは滅ぼされるぞ。
よくも私たちを痛めつけてくれたな。
今度はお返しだ。
詩篇137:8
(リビングバイブル)
主の勝利を宣言します。
いちわのすずめ
・日常の出来事の中で、主が私たちとかかわってくださり・・
・古い私は死んだ。私が今生きているのは、キリストを信じる信仰によるのです。
・病気もイエスの支配下にあります。
・イエスの主の勝利を宣言します。
*
いちわのすずめ姉妹が前進されている
姿に触れ、とても安心し、
ただ主に感謝をささげました。
私自身も今 大きな転機に差し掛かって
いるらしいです。
それぞれを 主がそれぞれにふさわしく
導いて下さいます。
その主の真実と忠実さに信頼を寄せます。
「神への信仰と従順」、「魂の命の問題」はやはり神の光の中で見るということが鍵ではないでしょうか?私たちは、知る、感じるということよりも「見る」ということが大切なのではないかと最近思っています。
①私たちが、私たちの思い、思想、考え、感情、情熱、涙、音楽、議論によって、私たちの内側の肉の腐敗を見る
②私たちが、神の光の中で私たちの内側の肉の腐敗を見る
③私たちが、私たちの思い、思想、考え、感情、情熱、涙、音楽、議論によって、私たちの内側のキリストを見る
④私たちが、神の光の中で私たちの内側のキリストを見る
①と②、③と④との違いは、神でさえ埋めようがない違いなのではないでしょうか?
全くその通りでしょう。
私達が自分の知性に頼って神の真理を
知ろうとすることさえ
本当は大いに問題なのでしょう。
(それを私はこれまで臆面も無く
してきたと言うことになります!)
本質的に
「創造されない神の真理」を
被造物に過ぎない人の魂の知性で「知る」
ことは不可能なのでしょう。
この度
魂と言うヘブル語は創世記1の24の
「生き物」の「物」と同じ語であると
知ったのはショックでした。
(ダービー訳もそうです)
地の生物が神の事を知ることなど所詮
不可能です。その生物が私の魂、
私の知性なのです。
それはネズミが
人の哲学を理解することよりも
さらにあり得ないことでしょう。
だからどうしても神からの「光」が
必用とされるのです。
この差は実に大きい、と言うよりも
本質的な相違なのです。
私はどうすればよいのでしょうか。
昨日は仕事納めで、早めに会社を出て、今はアジアの果てに赴任している昔の仲間と久しぶりに会って寿司屋に行き、食べて飲んで会話して楽しいひと時を過ごしました。夜11時過ぎに寝たのですが、なぜか2時過ぎに目が覚めてしまい、つらつらとあることを思い巡らしていました。
さて、魂について興味深い御言葉があります。
『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい』(マタイ10:28)
『生る魂となった』(創世記2:7)とあるとおり、魂は人間の本質あるいは本質に近いものだと思います。よって人間も敵もこの魂を滅ぼすことはできません。しかし、神だけは滅ぼすことができるということです。髪から見れば『魂』も滅ぼすことができる『物』『被造物』ということなのですね。
シュガーさんが、このところブログを更新されないので、心配しています。シュガーさんの霊とイエス様の霊は一つになっているので(1コリ6:17)、シュガーさんの魂や肉体の大脳から出てくる真理の考察もあるでしょうが、霊の部分に知恵と啓示の御霊(エペソ1:17)が働いて出てきているものも沢山あるように私には感じられます。地上にあっては人間は完成されるものではありませんからお時間がありましたらまた是非ブログを更新してください。いつも読むのを楽しみにしていました。旧約の預言者はもちろんのこと、12使徒やパウロでさえ真理を全部知っていたとは思えません。私たちはいずれにしてもほんのわずかの真理しか知りえない存在だと思います。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。」(申命記29:29)。主から与えられた分に応じた主にある交わりができればそれで大満足です。
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