2008年12月7日日曜日

あるメールから(13)

昨日の集まりで、私も一言、話させていただいたのですが、
どうも私は話し下手で、後で言い足りないなーといつも思うのです。
そういうわけで、昨日の話に補足させて下さい。

以前行っていた「教会」の姉妹たちが集まると必ず世間話しになって
信仰の面を語り合うことができなくて、そんな状態が続くうちに、
私が「神様に直接訴える」という事を実行するようになりました。
それをしていたある時ウオッチマン ニーの「神を知る道」と言う本を
読んでいたら「神に直接話す、神に直接訴える」ということが書いて
ありました。その時「ああ、これは私が今やっていることだ」と分かり、
私はとても喜びました。とはいえ、それはやむを得ず、仕方なしに
やっていたことでした。しかしとにかくその時以来私は、神様に直接
向かうようになったのです。

それからは、自分の問題を直接神様に向かってあーだのこーだのとやる
ようになり「総ての解決は内住のキリストにある」と思うように
なったのです。そして、クリスチャンとして生きてゆく土台は、自分
ではなく「あの内住のお方」なのだと確信し、その結果それまで
行っていた「教会」を去る決心がついたのです。

今は、真に神様が願われている教会・エクレシアの姿や本当の交わり
について、そしてまた内住のお方によって生きることとは何かを
少しずつ教えられて幸を得ているのです。


もう一つ、クリスチャンはよく愛を語り、愛のある行為とは何か
と言うことについてよく話しますが、それでは一体「最も」愛のある
行為とは何か、についても教えられたように思います。

ヨハネ 15:13に 人がその友のために「いのちを捨てる」という、 
これよりも大きな愛はだれも持っていません とあり
Ⅱコリ 4:12には 死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたの
うちに働くのです、とあります。

私が自分に死ぬ、即ち「自分の魂の命」を死に渡すことの結果として
初めて、復活のキリストの命が私の友の内側にも到達するのである
と言うこと、そしてそのような愛の行為・即ち自分の魂の命を死に渡すこと
以上の愛と言うものは、他にはあり得ないのだと思うようになっています。
それは私の色々な親切な行為より、はるかに勝るものではなかろうか
と理解するようになったのです。
ということで、これからもよろしくお願いします。

★原文は公開用のものではありません。それで申し訳ないのですが、
出来るだけ本人の意を汲んで?私が補充したところがあります。
御了承ください。

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