2008年12月6日土曜日

ある会話

Dさん:
このたび経験したことと言うのは・・・
キリストの中では(飛行船の中では)もし
それが「人の発案」ではなく「主の発案」から始められた
ことならば、部分的な祝福ではなく、まったき祝福となり
すべての事において主のバックアップを見るのです、という
ある兄弟の言葉の体験であったと思うのです。

「主の発案」は人が介入できない事柄のなかへ主が介入
され、事が主のなかで自然に運ばれて行く事。
それを見ていく事ほど楽しく胸ときめく事はありません。

sugar:
飛行船、いいですねー。
何かみたいにキンキンする爆音もなく汗も流さず、
高き所にいて地の景色を見下ろし、
スガスガしい天の空気を沢山吸いながら。

そんな風にして、
彼の運転に総てを委ね、
ただ運ばれていただけとはね

Dさん:
はい、夢のようでした。(*^_^*)
でも、今思い出したのですが今回の旅立ち?の前にアチコチの
兄弟姉妹たちが「私たちって何もやらなくっていいんだよねエ~」
とささやいているのを小耳にして出かけましたから、これもまた
予言的なささやきだったかなって驚いています。 
あの不思議がいろいろなところまだまだ隠れていそうです。

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

英語には
There is no sense of pushing yourself
「自分で自分を押さなければならないという感覚が無い。」
という表現があります。同じことですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

真に「神の力を知る」ということが
はやり必要であると思っております。