魂の機能(魂の器官)は当然
魂の性質、魂の強い傾き、魂の強烈な傾向、即ち肉とは異なります。
肉は神が創造された人の中には無かったものです。肉はある時に
人の体を通して魂の領域にまで進入し、人に根本的な「傾き」、罪深い
モノへ傾く強い傾向を与えてしまいました。(ここに人類は大問題を
抱えることとなったのです。)
本来キリスト者とは神の性質・傾き(神の徳)を「神の命、
エネルギー」によってのみ表現するべき存在です。即ち私達は
神の性質を神の命によって表現するべきです。その際、神の命・
神の力は当然「キリスト者一人一人の個性的な魂の諸機能」を経由する
わけです。(即ち魂の機能・器官を神の命・力が発動させると言うこと)
神は人の魂の機能までも十字架につけることはなさいません。
除去されるべきは外部から進入した肉です。
人の魂に存在する諸々の徳、知情意などの機能・器官
(その機能には個性がある)を神は永遠に守られます。
なぜならそれらこそ、神のイメージ、神のかたち
(創世記1の16、17)であるからです。
ですから、A兄弟は永遠においてさえやはりA兄弟であり、千年期や
永遠においてAさんが突然Bさんになったり、別の生き物になったり
と言う様な奇妙なことを神が決してなさいません。(それは
人の宗教の発想です。)
なぜなら神は一つ(それはキリストにある)の中の多様性を
重んじられるからであり、それによって神の偉大さを展覧なさりたい
からです。一項目「神の知恵」においてさえ、その多種多様な現れを
神はエクレシアに対して望んでおられます。(エペソ3の10)
取り除かれるべき要素は「魂に強烈な影響を与える肉」です。肉とは
人の罪深い性質・傾き・強い傾向です。ですから古き人である本来の
私はどうしても罪に傾くのです。肉はあたかも私になってしまった
かのようです。(肉から生まれるのは肉であり、古き人、古き私は
肉であるからです)しかし、ハレルヤ、私達の肉(傾き)は
既に十字架に釘付けられてしまったのです。「私達の古い人が
キリストと共に十字架に付けられたのは、罪のからだが滅びて私達が
もはやこれからは、罪の奴隷でなくなるためである。」
(ローマ6の6)
従って今まだ「罪の根」はそこに存在しているとしても、罪は
肉の除去により人の魂の機能にまで達することが出来ません。
私の中の肉・古き人は罪に対して死んだからです。
*
私達はこの「魂の、肉からの解放」を私の生活において現実的に
経験するべきであり、来る日も来る日も肉の支配下で生活する
べきではありません。もしもキリスト者が繰り返し、汚れた肉の
奴隷状態にいるとすれば、それはむしろ不自然です。魂が肉から
解放されること、それは決して私たちの手の届かない所にある
のではありません。何故ならば、
それはキリストによって既に解決済みであるからです。
しかし、これらの神の真理に対する信頼がなければ、その事実が
「あなたの現実」に降りて来ることはあり得ません。何故なら
真理はただキリストの中にあるからです。即ちそれはキリストの
復活の中にある永遠の領域にのみ存在するものであるからです。
従って人の側から見るとき、総ては信仰にかかっている、
と言えるでしょう。
1 件のコメント:
肉とは、Sinのことなのでしょうか?
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