2008年12月12日金曜日

肉と罪(SIN)

*でもクリさんへ*

罪(Sin)は肉の中にあります。
「それを行っているのは、最早私ではなく、私の内に住みついている
罪なのです。私は、私の内、即ち私の肉の内に善が住んでいない
ことを知っている。」(ローマ7の17)

「私の内に住み着いている罪」、
この場合の「私」は、その後の記述から分かるように「肉」です。
このことはローマ3の20、ヨハネ3の6、更にガラテヤ2の16
「なぜなら律法の行いによって義と認められる肉(原文)
は一人もいない。」などからも明らかでしょう。


肉は、罪深いものへのどうにもならない傾向、傾き、即ち人の根源的な
「罪の性質」です。そしてその肉の中に単数形の「あの罪」が宿って
いるのです。罪とは「ある不思議な力」であると言えるでしょう。
それはこうです:罪とは肉を動機付け、呼び覚まし、掻き立て、遂には
肉の欲を全解放するように強いるある奥深い力です。

その結果、私達は多くの罪(複数形の罪)を犯します。これに
抵抗する「すべ」を人は一切持っていません。
解決はただキリストにおける十字架上の肉の「割礼」にあるのです。
結論として、肉は罪へ傾く傾向そのものですが、それを発動させる
強力な力が肉の中に住んでおり、それが罪(the Sin)である、
と言えるのではないでしょうか。


しかし、以上のような知識は、ただ知識として持っているだけでは何の
役にも立ちません。必要なのは実際生活上での「魂の、肉からの解放」
です。聖書はこの時代における「罪の根絶」について語っているとは
思えません。何故ならヨハネは「罪が無いと言うなら・・真理は
私たちの内にありません。」と言っているからです。(Ⅰヨハネ1の8)
しかし、肉からの解放については聖書は何度も明確に語っています。
それ故、もし神の言葉に偽りがないのであれば、キリスト者はキリストの
達成とその命によって、現実に肉から解放され得る筈です。

ですから私達は自分の生活の中でその勝利を求め、その為に神から啓示を
与えられ、キリストが十字架上で達成された事実に安息することにより、
実際的に肉からの解放、即ち「罪に対して死んだ私達」(ローマ6の2)
を経験するべきです。


以上がキリスト者の勝利の為の消極面です。私達は積極面においても、
更にキリスト者の霊の中にある「勝利する命」「命の御霊の法則の力」
をも同時に知り、経験することが出来るのです。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

肉の中に罪(Sin)があるとしたら、肉からの開放は、Sinからも解放されるということにならないでしょうか?私は、このあたりのことがよく分からないのです。(1ヨハネ1:8)と(1ヨハネ1:7)の関係も釈然としないのです。