2008年12月12日金曜日

肉と罪(SIN) 2

1.
肉の中に罪(Sin)があるとしたら、肉からの開放は、Sinからも
解放されるということにならないでしょうか?私は、このあたりの
ことがよく分からないのです。
2.
(1ヨハネ1:8)と(1ヨハネ1:7)の関係も
釈然としないのです。


二つの疑問の内 
1.については更に検討しなければならないでしょう。
やはり難しい問題です。それは後日に回しましょう。
(しかし、これからもこれらの大切な問題について、お互いに
交わりあうことは素晴らしいことだと思います。)

ただ、
神は「あなたの罪を根絶するように」とはどこにも言われていないので、
実際生活において私達は「肉を対処するだけでよい」のではない
でしょうか。しかしそれだけでも実際にはたやすい事ではありません。
(罪と肉の問題の他に「この世」や「己」の対処の問題があります!)


2.は簡単です。それは いわゆる複数形の罪の問題であり、sins は
キリストの御血によって総て洗い清められます。「総ての罪」の中には
大小様ざまな罪、赦されそうな罪、赦されそうに思えない罪、覚えている罪、
無意識の罪、過去の罪、明日犯す罪、その他総てのありとあらゆる罪が
含まれますのでその告白をし、神の言葉を信じるならば、複数形の罪に
関する限り直ちに平安が得られるはずです。

しかしそれは、私がいつの日か、複数形の罪を一切犯さなくなる
と言う意味では全くないわけで、そこで複数形の罪の根源である
私(肉、古き人)の死が必要となるわけです。
御血によってsins が清められ、十字架上での「私の死」によって、
私の肉が取り除かれるのです。

実際上の罪の対処に関して、聖書で取り扱っているのはこの分野まで、
ではないでしょうか。罪の抜本的な根絶はこの時代にはあり得ないと
私は思っています。それは次の時代を待ちましょう。

しかし
「信仰による先取り」によって、千年期や永遠における勝利や完全を
この時代の中でさえ「前味わいする」と言うことが聖書にはあります。
何しろ聖書の真理は時間を超えた永遠の中にあるのですから。
前味わい、これもこの時代における
キリスト者の大いなる楽しみの一つです。

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして、秀亮と申します。
勝手ながら肉に対する僕の理解を書かせていただきたいと思います。

肉とは、
「神が元々意図した人間(つまり霊・魂・体)の中の「霊」が機能しなくなることによって生じた人間性の歪み」
「古い人の性質が人の魂・体に染み付いて現れ出る様」
等と理解しております。

そしてこの肉には、罪の法則が働いています。(ローマ7)

僕は、肉の中に罪があるかないか分からないとしても、肉からの解放は罪の法則からの解放、つまりSinからの解放といっても、全く問題ないと思っています。

もし論点と外れていることを書いてしまっていたらごめんなさい。

Mr.Sugar さんのコメント...

秀亮さん、有難うございます。

肉と罪、本当はとても大切な問題なのに
関心を抱く人はとても少ないのです。

ですから、コメントを頂いただけでも
とても嬉しいです。

これが実際的なキリスト者の自由に
繋がって行ければと思っております。

書いて下さったことは 
私の見方とも矛盾するものではない
のではないでしょうか。

匿名 さんのコメント...

こんばんは。
いつもシュガーさんの日記には学ばせて頂いていて感謝です。

>これが実際的なキリスト者の自由に繋がって行ければと思っております。

本当にアーメンです。
客観的真理を、実際に自分のいのちとして生きていきたいと切に願っております。

Mr.Sugar さんのコメント...

本当に嬉しいコメントでした。
こういう理解をする人がいるんだと、
真に励まされました。

多くのキリスト者が
客観的真理を
自分と自分の環境の中に豊かに生かしだす、
そういう日が本当に来ることを
主に祈り続けます。

匿名 さんのコメント...

1ヨハネ1:7の「・・・神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら・・・」私たちが光の中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態であると考えていたのです。このへんのところがよくわかりません。その状態は罪のない状態だと思ったのです。このあたりのことが今でもすっきりしません。