主は必要に応じ、当然多人数のキリスト者の集まりを与えて
下さいます。この多人数の集まりは相互間の重要な「情報」の交換の場
として用いられます、スポーツの試合におけるミーティングの様に。
しかしエクレシアにおける、主要な敵との戦いの前線と神の働きの基点は
むしろ一人、或いは二、三人にあるでしょう。(マタイ18章等)
なぜならキリスト者が一人、二三人でいる状況は、人の生活にとても近い
からです。神は人の命、生活、人生即ち人のLIFEを愛されます。
しかし神の敵も人のライフをめぐって昼夜働らいているのです。
*ロゴスとレーマについて*
どちらかと言うと、多くの集まりで語られたロゴスは一人、或いは
二三人の場において「レーマ化」することが多いようです。ロゴスとは
恒常的な神のことばです。しかし白黒の新旧約聖書の神のことば・ロゴスを
ただ所有しているだけであるならば、それは死んだ文字に過ぎません。
それはそのままでは何の役にも立たないだけでなく、もしも私が他人に
対してそれをナマのままで用いるならば何と私はその人を殺すことになる
でしょう。(Ⅱコリント3の6、この場合パウロが言った文字とは
明らかに旧約聖書の文字です)
しかしある時、あなたが記憶していたロゴスがあなたの内でレーマ化
する時即ち神がそのロゴスを用いてあなたに直接に語りかけられる時
神のことばが初めてあなたに対して効力を発揮することになるのです。
記憶されたロゴスが即時的に、その時の状況に応じて神からの生きた
言葉としてあなたを照らし、あなたの霊に直接触れ、あなたを生かす
ならば次に、そのことばがレーマとしてあなたを通して人々に対し真に
役に立つものとなるのです。
なぜならエクレシアとは「今日の天地にある生けるキリスト」が私達と
言う「人間性を通して」表現されたものであるからです。今日の
キリストが命のない何物とも、即ち生きていないキリスト以外の
どんなモノとも融合することなど決してないからです。
*
ここに一つの危険性があります。
それは人が「誤謬なき正当なロゴスを振り回す」ことです。例えば、
大音量の拡声器で人の滅亡について伝える無機質な声を人々に聞かせ、
説得しようとすることなどです。これは殆ど効果がありません。なぜなら、
ロゴスが人の霊と人の生活を経由することによってレーマ化していない
からです。多くの場合それはむしろ人々を神のレーマ(神からの直接的な
語りかけ)から遠ざける働きをするだけでしょう。
私たちにも危険性があります。
それは私達が例えば、ある「霊的な人」のことばを取ってそれを、
ナマのまま他人の説得に用いようとすること等です。そのことばが、
その霊的な人の口から発せられた時はレーマであったとしても、それを私が
「権威ある霊的な人のことばとして」人の説得に用いようとするとき、
殆どの場合それは「正統で無機質なロゴス」に過ぎません。そのような
方法でそれらの「正しいことば」を用いる私は正に「トラの威を借りる狐」
のようなものです。私達はキリストの十字架によって自分の中に住む
「狐」を日々対処しなければならないのです。(雅歌2の15)
このように私達には「霊的なことば」を「新しい律法」に変化させる
危険性さえあるのです。それは一つの「宗教」を立ち上げるのに役に立つ
だけでしょう。そういう時、そこに働くのは宗教的権威です。ですから、
その宗教的な権威の力の故に私が発したロゴスは或いは相手を
平伏させることに成功するかも知れません。しかしその平伏は決して
「今日の天地にある生きたキリスト」とは相容れないものです。
むしろそれは確実に神の敵に用いられるでしょう。神の敵もロゴスを
用いるからです。(しかし彼は決してレーマに触れることは出来ません。
なぜならレーマには天の成分、十字架と復活の成分が
含まれているからです。)
*
たとえそれが
「聖書通りの誤謬のないロゴス」であったとしても
私達がそれを用いる時に「必ず経過しなければ
ならないもの」が幾つかあります。
それは「私の魂の機能と体」即ち
私と言う個性的な人間性であり、そしてまた
日々の「古き私」を死に至らしめる十字架です。
私達は神のことばを「新しい私」を通して語らねばなりません。その時
神のことばは他人からの借り物ではなく「人間であるイエスとあなたの
ことば」となるでしょう。神のことばは今日「十字架を経られたキリストと
あなたの一つ」を通して語り出されなければならないのです。何故なら
今の時代、神は、天使の口によってではなく、原則として
「キリスト・者、キリスト・人」を通してのみ語り出されるように
定めておられるからです。
2 件のコメント:
アーメンです。
バベルにおいて混乱させられたことばは、人為的に回復させることはできないでしょう。
イエスという「いのちのことば」を共有することなしに、交わりも一致もないと思います。
神はバベル、混合を退け
これから、聖であり純粋なキリストの
復活の霊によってのみ、
事をなさるでしょう。
そのための十字架の効力は日々
私たちに及ばなければなりません。
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