2008年12月3日水曜日

希望・神は人の霊を守られる

宇宙には種々の霊が存在しますが、人の霊は特別です。
それは何と神の命の息でした。

しかし、それは神御自身ではありません。即ち霊としての神
ではないのです。しかし人の霊は、間もなく「永遠の命」としての
神を迎えるための存在ではあったのです。

従って当初の人の霊は当然ながら、神によって純粋に守られた
のです。今日の人々の霊でさえ、神はそれを守っておられると私は
信じています。だからどんな人にでも、まだ希望があるのです。
その魂(感情と思いと意志)と体において汚れ果てた「悪人」の
霊(良心を含む)でさえ、彼の霊だけは「ある意味で」聖域です。
(ですから私達は福音を伝える時、自分の霊を用いて、その人の
思いや感情に対して、と言うよりも、その人の霊に向かって
彼の霊に触れに行く必要があるのではないでしょうか。)

本論に戻ります。しかしながら、ご存知のように 人の霊は
アダムにおいて死んでしまったのです。この場合の死とは、その
機能の停止です。即ちそれは「神との交流の停止」と言う意味での
死です。人の霊は神に対する正常な機能を失ったのです。従って
今日、時に人は神を思うことがあったとしても、彼の神観念は
正に支離滅裂なのです。(だから先ずはとにかく、人の
「死んだ霊」が新しく生まれる必要があるのです。)

なぜ人はそのようになってしまったのでしょうか。それは、
人が「永遠の命」を拒否し「善悪を知る」を選択したからです。
即ち彼は神の命に依存せず、自分の魂の命のエネルギーによって
生きる生き方を選んでしまったからです。

その日以来、彼の魂はその分限を超えて「成長」し続けました。
その結果、度を越えて肥大した魂の力によって、遂に魂は、本来
魂の主人であるべき霊に絡まり抑圧することにより、霊と魂の
本来の地位関係を完全に逆転してしまったのです。人が神から
独立する道を選択したことは、かように人の内面に不秩序と混乱を
生じさせると言う実に巨大な代償を払う結果となったのです。

しかし事はそれで終わりではありませんでした。
更に人は坂道を下り続け、遂には、何と体の「肉」が魂を制圧する
に至りました。即ち肉が人の総ての王権を握ったのです。これが
人の終着点でした。その事実を聖書では「人は肉に過ぎない」
と表現しています(創世記6の3)。もはや人の意志が正常に機能
するはずもなく、人の理性や感情も肉の力に圧倒されてしまった
のです。これは「霊を総てのよりどころとする、霊→魂→体」と
言う人本来のあるべき姿から見るならば何たる恥辱でしょうか。

しかし、この状態こそ昨今普通に見られる世情の真の有様では
ないでしょうか。しかしこの全世界的傾向はこれからも更に
増大し続け、人々は必ずある極点を迎えることになるでしょう。
正に今は「大洪水」前であるからです。
(このような圧倒的世情の只中で「真の箱舟」を
建造せんとするのは一体誰でしょうか。)


しかし私達はそれでも神を賛美するのです。なぜなら今でさえ
人の霊は「聖域」であるからです。神に感謝します、どんな人で
あろうと、神は彼の霊を守られます。なぜでしょう、それは
人はこれから、その場所・彼の霊の中に、あの「人の子となられた
聖なる永遠の復活の霊」を迎え入れる可能性が
いまだに残されているからです。

ですから、人の必要は唯 真の命によって彼の霊が新たに
生まれる事、次に「主と一つになった彼の霊」(Ⅰコリント6の17)が
正常に機能するために、次第に成長、円熟して行くことなのです。

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