2011年10月21日金曜日

今日の詩篇の通読から

旧約の神はなぜあんなに残酷(ざんこく)なのかと
いう質問をよく聞きます。確かに、たとえば
ダビデは塩の谷でエドム人、1万2千人を殺しましたが
その意味では殆どの旧約の主要な登場人物達は「残酷」
であったと言わなければならないでしょう。

しかし、まず旧約聖書とは、
単なる絵や説明であることを知りましょう。
「神の関心」はひたすら「霊的な実際」にあります。
霊的な事実こそが本物であり、旧約の世界だけでなく
今私たちの体と魂が接しているいわゆる「現実」でさえ
単に霊的な世界の「写し」に過ぎません。例えば一万年後
私の薪小屋建築という「現実」はどこにあるのでしょう。
絵はその役わりが終われば「実体」に地位をゆずるべきです。

多分ある人々は(豊臣秀吉のように)遅くも臨終の時に、
この世の出来事は総て「実体のない単なるカゲ」に
過ぎなかったことを知るでしょう。しかしそれでもその
人たちは幸いです。何故ならそういう人には
「永遠への救い」が「近い」からです。

とは言え、霊的な世界は分りにくいことも確かです。
そのために神はこの世界の「物質的、魂的な出来事」
によって、分りやすく霊的な実際を説明されるのです。
「旧約に出てくる敵」とは実は「今現在の神の霊的な敵」
サタン、堕落天使達、悪霊達のことです。

神はこのような悪い霊に対しては極めて残酷(ざんこく)です。
だから私たちも人には徹底的にやさしく
悪霊に対しては徹底的に残酷であるべきです。しかし残念な
ことに今日の人々は、それとは全く逆で、人に対しては戦いを
いどみ、悪霊に対してはとても寛容(かんよう)です。
(これは悪霊達の大成功にほかなりません。)

当然のことながら、霊的な戦いのためには、まずは
「霊的な事実」を神のことばによって正しく知ることから
始まります。そうでなければ悪霊と戦うことなど
到底不可能であると言わねばなりません。

2 件のコメント:

Willie Yanaka さんのコメント...

>人には徹底的にやさしく悪霊に対しては徹底的に残酷であるべきです。

本当にそうですね。このように理解すると、ヨシュア記の”聖絶”の意味もわかる気がします。

でも、まさしく主の十字架で古い自分も含めて”聖絶”されたんですね。

そのことを思うと、主を賛美するしかありません。

匿名 さんのコメント...

確かに。
私の中に
イエスの十字架による「徹底的な聖絶」があって
初めて「神のわざ」に値するものが築かれ得るのでしょう。

神は少しの不純も許すことはあり得ず、
それらを完全に除去されなければなりません。

そう言えばあの時、
祭司長達ユダヤ人達は、ピラトに向かって
「イエスを除け、除け!」と叫びましたね。
神は既に最後のアダムに含まれる一切の古きものを
イエスの肉体にあって取り除かれたのです。