2007年8月30日木曜日

ある交わりから 2

芦原さん:
最愛の息子さんを失い、涙も枯れ果てたような失意のどん底で
悲しみに打ちひしがれるだけの相当の期間の後、
遂にその時が訪れた:
突然 芦原さんの口から何故か賛美の鼻歌が流れて来た と言うのだ。
そしてとりまくあらゆる現実から遊離させられたような感覚の中
姉妹は 向こうにあるカーテンが静かに開かれて行く幻を見たのだ。
そしてその時 主ご自身が姉妹に語られた:
「私には計画がある」と。

その一言で彼女の悲しみは全く拭い去られ、
総てに納得が与えられたのだと言う。
何が正しいのか、などではない世界がここには確かにある。
主が直接姉妹に触れられ、主が姉妹に直接語られたのである。
これは主との真実単純なタッチが
一人のキリスト者の総てとなった と言う証なのです。


高藤さん:
ご主人のことで散々苦しんで来られた高藤姉妹。その果ては 
彼女「私は知らない、もうどうにでもなれ」と、 何と
自分と自分の状況を完全に放棄し捨て去ってしまったのである。
しかし遂にその時 主が乗り出して来られ主が語られたのだ:
「姉妹よ、私の息子(ご主人のこと)の為に 
出来れば私と一緒に祈ってもらえないのだろうか」と。
その主のことばは明瞭であった。それは決して
「あなたの夫の為にしっかり祈れ!」などではなく
「出来れば私と一緒に祈ってくれないか」であった。

復活のイエスの無限な言動を 人の観念の中にある
宗教的型枠の中に押し込める事など出来るものではない。
今、ご主人は教会の中で 芦原姉妹のもう一人の息子さんと
とてもよい交わりを持たれている と言う。

この証のもう一つのポイントは:「私は知らない」にある。
その際 姉妹は真に自分の力を捨て去ってしまい、
同時に彼女の信仰が無意識の内に機能したものと考えられる。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>「姉妹よ、私の息子(ご主人のこと)の為に 
出来れば私と一緒に祈ってもらえないだろうか

「あなたの夫の為にしっかり祈れ!」などではなく
「出来れば私と一緒に祈ってくれないか」であった。

アーメン!感動を持って読ませていただきました。感謝します。

Mr.Sugar さんのコメント...

この証を聞いた時「へー イエス様が
そんなことを」と 大変感動し
主に対する私の観念が相当 変えられた
思いがしました。
私達はこんな愛すべき主を持っているん
ですね!
今後ともよろしくお願いします。