2007年8月17日金曜日

今日のメールから

言われるように
1点キリストは 究極的な神ご自身の願いでもありますよネ。(エペソ1章)
確かに「神が最も大切にしておられ、必ずやある日それを実現される
というもの」をこの時代に発見し「先取りして」今こそそれを大事にする
と言うのは キリスト者が首尾一貫した価値ある人生を歩む為の
相当大きな秘訣と言えるでしょう。

ホント今なんですよ、この時間の中、この肉体の中にいる今。
まさしく明日は今日の結果なのです。

死んだだけで、その瞬間パッと私が素晴らしい状態に変えられる等と
ということは絶対にあり得ませんし、死者が生者の祈りや功徳によって
救われるということもありません。そこには一つだに合理性も正義も
無いではありませんか。あるのは甘えだけですね。
神が甘えを赦してあげるなどと言うのは聖書の中心思想ではありません。
一体聖書の中心であるあのイエスの十字架の どこに甘えがあるでしょう。

それは人の宗教観念から出てくる 単なる希望的想像に過ぎません。
今何も無ければ、明日も何も無いのです。「人の愛の感情」に
巧みにまといつく敵のウソに欺かれてはなりません。

以上のことは「総ての人」に該当する事実です。
未信者には未信者の福音があり、
キリスト者には「キリスト者の福音」があるからです。
死ねば天国に行けるから安心であると言うのは少なくも
聖書の思想ではありません。

それにしても 私が今日という日、いまだに
この時代をこの肉体の中で生きることが許されている、
ということは何と素晴らしくまた峻厳なことでしょう。


今山は雨になりました。さっきまで、濃い霧がたれ込めていたのに。
本当に暫くぶりの雨、
森の木々もきっと喜んでいることでしょう。

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