2007年8月1日水曜日

キャンプ情報(5)

*持ち寄り食事会*

パウロの時代、彼らは家々で よくこの持ち寄り食事会していたようである。
結構よくない状況もあったようで、パウロやユダが嘆いている。

今日この集まり方を 時々私達もして見るのは多分有益であろうと思う。
所でそれはそれとして今 この持ち寄り食事会について
以下のように考えて見るのもよい事かも知れない。
(これは旧約時代の型としての事例とは異なるであろうが、
例えば「主の足洗い」からその霊的な意味を知ることが出来るように)

*
つまり食事とはキリストである。
信者は美味しいキリストと言う食べ物を作り 集まりに持って行き、
他の信者と そのキリストの天の風味を共に楽しむのである。
それがキリスト者の集まりと言うものではなかろうか。

それでは いつどうやってその料理を作るのか。
それは当然ながら 集まりに来る前の日常生活の真っ只中で である。
(集まりに来てから料理するのは あまりにあわただしい!)
食材と言うものは総て「命ある物」である。
その命を殺し、切り、焼いて、初めて美味しい料理となる。

それでは この食材とは何か。
今この時代においては その食材とは他ならぬ私なのだ。
日常生活の中で私に与えられている環境の中で 
キリストの死を我が身に頂き、海山で育った食材 生まれながらの私を
キリストの死に渡し、私が切られなければならないのである。
そして更に 私はキリストと共に火の上で
焼かれなければならないのだ!

*
永遠においては 
イエスキリストと言う神の料理は既に完了している。
当然キリストはそのために必要な行程の総てを経過された。
2千年前に完成されたキリストの御業の各過程がそれである。

もう既に事は成った。それはもう永遠に完了した。
だから今度は私が 信仰を用いてこの時空のなかで 
キリストの御業の一つ一つ・その完成に至る為の過程の一つ一つを
自分のものとしてわが身に頂き適用する番なのである。

「私がキリストイエスにあるのは神による」(Ⅰコリント1の30)
故にそのキリストの永遠の御業の中で 私自身もキリストと共に
その過程を経過させられたと言う事を信じ安息し、
敢えてその死の環境を主の手から頂くとき
私とキリストとの結合の事実が 
今のこの時点での、この事例そのものにおいて
私という生の食材を美味しい料理へと変化させられる、即ち
私がキリストと共に復活させられるのである。

手短に言えば 私が信仰によって 
動かし得ぬ永遠の真理を時空の中にもたらし 
永遠の真理の圧倒的絶対的 優位性を実証するために
それを言わば「時空の中の私」と言うスクリーン」に映し出し、
それをサタンに対し誇らしく見せつけるのである。

キリストの復活の中にある永遠の真理は
いと高き所にある崇高な真理ではあるが 
今のこの時空の時代においては 
それを信じ信頼する者のみに 実際的な効果を現すのである。
ここに霊的な力、信仰と言うものの驚くべき尊さがある。

*
さて、今まで述べた信仰によって私を「キリストの死に合わせる」こと
(既に2千年前にキリストと私の死が完成しているから、
今それを信じる、が合わせること)
そのことまでが私の役目である。
もしも唯私が信仰によってそうすることが出来るならば 
必ずやキリストは この時空の中でも 
神にとっての真に香ばしい香りとして私と共に復活されるのだ。
(この時空の中で 永遠の復活を証明されると言うこと)

従って私はこの私と共に調理された 
つまり復活したキリストと言う料理を 集まりに持って行き 
私と共に焼かれたキリストの芳香の中で
人々に楽しんで頂くことが出来るのである。

*
日常生活にある料理のチャンス 死のチャンスは あちこちに転がっている。
否 死のチャンスは(つまり 私用のまな板と包丁とオーブンは)むしろ
常時私に臨んでいる、私の直ぐ上にあると言える。
その適用は正に私の心次第なのだ。

所が もしも私の心が他のものによって奪われていたり
「まな板の上にわが身を置き、切られ、焼かれること」から逃げたりすると
美味しい料理が完成されることは無い。
むしろ 私は生のままの食材を集まりに運び その結果私は皆さんに、
生のままの 或いは半生の「料理」?を人々に提供することになる。
もしそうであるならば私があつまりに行っただけで
人はそれを感知して敬遠するか 私の「料理」を人々が 
心からは楽しむことが出来なくなってしまうのである。

*
生の食材(つまり生まれながらの私)は直ぐに腐って悪臭を放つ。
キリスト者の集まりの中では 
こういう「高度な生の日本料理」はやめたほうがいい。

そしてまた カインが提供した十字架の無い「地の作物」(野菜)も。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

キリストと共に焼かれ 香ばしい香りをはなち、互いを楽しみ、私という 食材がおいしい料理に変わっていく そんなわたくしでありたい。しかし現実は どうなっているのかわからない。聞いても読んでもすぐ忘れてしまう。ただいまは 私の内に 主がおられ、そのこと思い喜んでいるだけである。

Mr.Sugar さんのコメント...

いつも有難う。
「私の内に主がおられ、そのことを思いよろこんでいるだけ」でよいと思います。そのことをいつもどんな時でも続けてゆかれれば、美味しい料理に変えられてゆくことうけ合いです。 ひろこさんが もうすぐ小屋へ!
 暫くですよねー、ウエルカム。