2007年9月5日水曜日

神は全能であろうか

*「死」の第二の意味*

神は全能ではない、と先ず言おう。
少なくも、神は私を改良することが出来ない。
それを行なう能力は神には無い、と言う点では 
「ある意味で」神は全能ではないと言えるのである。
人の思いに反し、実は神と言えども
私を 愛のある人間に仕立て改善することは不可能なのだ。
私を 神の為に役に立つ者に変化させることなど
更に出来ないことだと神は言われるのである。

この点で神は私に絶望されたのだ「全く望みが無い」と。
神が何かに絶望される事があるのだろうか、確かにある。
少なくも私を見る神の目には「絶望!」以外に何もないのである。
これこそが人と言う者に対する厳然たる神の評価、判断である。

たとえ懲役50年であったとしても 懲役刑の背後には少なくとも
或いは良くなるかもしれない と言う望みがある。
しかし、死刑というものの背後には 一るの希望や望みさえも無い。
もしも良くなる可能性が少しでもある者を死刑に処するとするならば
そこには正義も道理もないことになる。

しかし 私に下された神の厳正なる判決は 正にその「死刑」!
しかも更に「のろい」を付加され 木に釘付けられる絶望!
それは実に 究極的絶望であったのだ。

評価 0、無益、絶望の果てにある結果は唯一つ、廃棄、焼却である。
神はある時そのようにして人類を捨て、廃棄することを決断され、
そして2千年前遂に 神はそれを敢然として実行に移されたのである。

あの夜ペテロはイエスを一時的に捨てた。
しかし翌朝、神は「あのアダム」を永遠に「廃棄」した。
そこにイエスのあの悲痛な叫びがあった、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」

全人類は最初のアダムから出てきた。だから私達は総てアダム。
そして全人類は総て最後のアダムに帰結終結される。
しかし完全無垢なるイエスが 死刑になるはずがあるだろうか!
もしもそれがあるならば それこそ宇宙の一大不条理である。
だから、あの木に釘づけられた人は 他ならぬ私なのだ。

それこそが神の明確なる意図であった。
もしもこのイエスへの死刑、私と言う存在への絶望が無ければ
そして、今この時空の中でこの死に対して私達の目が
真に開かれるのでなければ その後に何もあり得ない。
(私の個人的なクリスチャン生活においてさえも何も無い。
キリスト者の生活の開始たるバプテスマの真の意味がこの死にはある。)
この死の明確堅固なる土台の上に 初めて永遠に価値のある
何ものかが生み出され 開始され得るのである。

「一人の人が総ての人の為に死んだ以上、
総ての人が死んだのである。」(Ⅱコリント5の14)
「私はキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2の20)

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