2007年9月5日水曜日

茶碗でなく お茶をどうぞ

これは ドクタールーク氏のブログ「IDLE UTTERANCE」の
今日の記事「キリストの体とローカルチャーチ」に寄せた
私のコメントの転載です。


当然のことながら 大切なのはイエスがしばしば強調された
「うわべでなく実質、中身」なのです。
中身とは電気に例えるならば 電気のあのビリビリそのもの、
またその表れである光やエネルギーです。
それは 天の源から発し今では すぐそこに存在され
正に電気の様に私達人の生活の只中、家々の中にさえ入ってこられ
私達の総てとなられる聖霊なるキリストご自身なのです。

しかしそれに反し 今現在多くのキリスト者はその中身からそらされ、
単に死んだ文字に過ぎない看板、信条、教義、名称 又指導者等 
自らが「正しい」と判断するそれらの「容器や茶碗」に魂が奪われている 
と言うのが実情ではないでしょうか。
当然今生きておられる復活の中のキリストはそれらの容器とは
本質的に全く別のものです。

重要なことは 中身である美味しいお茶、即ちその復活のキリストを
実際的に飲んでた楽しむことであるのに
皆さんは不思議なことに お茶はそっちのけで一様に茶碗に着目し
「われらの茶碗こそ正しい、この茶碗以外は神が許すはずがない」と
茶碗の比較検討にエネルギーを注ぎ、遂には自分が選んだ茶碗以外の
ものでお茶を飲む人々を 交わりから締め出すことさえするのです。
そしてその果ては そうすることが 神への忠誠を保つことであり、
自分達の純粋さや合一を守る道であると固く思い込んでしまうのです。
しかしその姿こそが実質的な分裂分派ではないのでしょうか。

これは何と愚かな事でありまた残念なことでしょう。
実は「正しい茶碗」などというものは無いのですよ。
神は「真の存在」である復活のキリスト以外の総てを
十字架に釘付けてしまったではありませんか。
茶碗のことなど どうでもよいです。
神は総ての茶碗を既に廃棄してしまったのです。
(それはキリストを総ての総てとならせるためなのです)

当然 自分達だけが正しいとする誇り高き人々はことさら
この「茶碗比較 特定の茶碗絶対視傾向」が強いようです。
この笑えない茶碗の正、不正をめぐる抗争が この2千年来の
キリスト教史なのかも知れません。これは真にご苦労千万な話であると
言わなければなりません。

正にこれこそ「何が善悪なのかを知るべし」と言う神の敵が巧妙に
仕組んだ迷宮なのです。一旦そこに入り込んだら
抜け出すのは容易なことではありません。
「正しさ」が生けるキリストに取って代わり そして
「純粋さと合一を守る」の熱心さの程度が
そのまま分裂の程度となってしまうとは!
忠誠や熱心さの恐ろしさがここにあるのです。
「善悪を知る」を取るか、或いは「命、神への依存・信仰」を選ぶかは
今に至るも人にとって 最重要分岐点となっているのです。

それでは真に必要な その命へ至る道とは一体何なのでしょう。
それはとても単純で本当に楽しいことなのです。
ただ直接あなたが あの命の木・神ご自身のもとに行き、
実際的に その木の実(キリスト)をもいで食べることです。
こんなに楽で愉快なことは無いではありませんか。
あなたがその様にする時 実にあなたのいるその場所が 
本来神がもくろまれた楽園とさえなるのです。

しかし惜しいことに現在
人々はその木の実の素晴らしい味を知らないし、
その食後に どんな素晴らしいことが起こるかも殆ど経験がないのです。
「その素晴らしいこと」それは 人に対する神の御目的の達成:
この地における神の敵(地を這う総てもの)に対する
人にある神の支配、キングドム・王国の現れなのです。


イギリスの兄弟達が(そして遂には全世界の兄弟姉妹も) 
更に命の木の実を食し楽しむことによって
益々 命の健康(正しさではなく)の中を前進され、そして
キリストの再臨・王国の全き現れを
真に促す人々となられんことを心から願ってやみません。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

コメント感謝です。私の方で転記しておきましょう^^

匿名 さんのコメント...

ご無沙汰しています。
奈良のSaltです。
尽きることなに茶碗論争からは距離を置き,
ともにうまい茶をすすりましょう。
茶道の作法の中には,聖餐式が隠されているという研究者もいます。本当だとするとおもしろい話です。

Mr.Sugar さんのコメント...

有難うございます。
先日 浅田御夫妻と思い出話をしました。
また来てくれないかなーとなりました。

私自身 もっと茶碗からお茶の楽しみへと
移動するべきです。その楽しみは 計り知れ
ないものがありますね。
確かにそれこそが原点です。

今は「肉体の中で私がその命を生きる」
(ガラテヤ2章)です。