2007年9月18日火曜日

ケンが来た

古いシンクのステンレスを剥がし、それを乗せる為の
新しいシンク台のやぐらが 昨日の夕方と今日の午前で完成した。
こうやって台のやぐら、つまりシンクの骨組みさえ作っておけば、
後日 シンク台の中に収納するものに合わせて 
中に必要な棚等を少しずつ作って行けばよいのである。
とても単純簡単である。


さていよいよケンとの暮らしが始まった。
ケンはクリスチャンではあるが、なればこそ彼の独特の世界を
理解し、 私が彼の癒しのための真の一助となると言うのは 
シンク台を作るようには行かない。

ケンは 彼独特の経験から来る 彼独特の感覚を 
彼独特の用語で表現する。 それを唯 聞いてやるだけでよいとすれば、
事は割と容易であるかも知れない。
しかし その様なケンに私が有効に介入して行くと言うのは
当然簡単なことではない。
私は一体この状況に どう立ち向かえばよいのであろうか。
道は遠く 果てしないようにも思われる。

結局私は こっちからにしろ あっちからにしろ 
彼へのアプローチや手段は 本来 私の中には全く皆無なのである、 
と言う事実に、総ての事の始めに 
先ずは 明確に気づかなければならない様である。

私に出来ることは一つだけ:
それは、この仕事は私の ではなく キリストの仕事であることを
知り受け入れること、 次に私は決してジタバタすることなく、むしろ
「 観念し、責任を放棄し 」 主ご自身が自由に ケンの状況総てに
入り込むことが お出来になる為の
幾つかの条件を整えることだけである、ということである。


それではどうやって キリストに入り込んで頂くことが出来るのか?
それは 「私がイエスと一つになる」と言う手段による。
何故なら 道とは唯 主イエスお一人であるのだから、
この人以外に「方法、手段」というものはないのだから。

さて問題は次に その主と一つになる道とは何なのか、
どうすれば 私はキリストと一つになり得るのか、 と言う事になる。
当然 その道が私の中になどあろう筈がないし
また、その道に至る力、手段などなお更 私が所有する筈もない 。
これは当たり前のことなのだ。
だからこそ私には「総てであるキリスト」が必要なのである。
誤解してはいけない、誰がキリストであるかを。
忘れてはいけない、私は もらうことしか出来ない者であることを。

私になし得ること、それは 「この宇宙で一人 キリストなるイエス」が
もう既に 私と一つになって下さった、 と言う彼の「達成」を信じる事、 
「それはもう完成されたのだよ!」と命を捨ててまで
切実に主張 断言された キリストの言葉を 素直に信じ いただき
その御言葉の上に安心して休息する事だけなのだ。

だからこそ これは福音と呼ばれている。 (ローマ1章)
それにしても この福音は 何と完全な福音であろうか。
もし私に何かを仕上げる責務等が少しでもあるとするならば、
それは福音ではない、お恵みではない。
それはきっと 単なる働きに対する当然の報酬に過ぎないであろう。


どうやら 私は今日を入れてもう5日間、或いは更に長い期間 
私がよりキリストを知って行くための ケンというとても良い環境を
主から頂いたようである。
ケンが小屋に来た、そして私の人生にも来た。
もうこれは逃げられない。

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