古いシンクのステンレスを剥がし、それを乗せる為の
新しいシンク台のやぐらが 昨日の夕方と今日の午前で完成した。
こうやって台のやぐら、つまりシンクの骨組みさえ作っておけば、
後日 シンク台の中に収納するものに合わせて
中に必要な棚等を少しずつ作って行けばよいのである。
とても単純簡単である。
☆
さていよいよケンとの暮らしが始まった。
ケンはクリスチャンではあるが、なればこそ彼の独特の世界を
理解し、 私が彼の癒しのための真の一助となると言うのは
シンク台を作るようには行かない。
ケンは 彼独特の経験から来る 彼独特の感覚を
彼独特の用語で表現する。 それを唯 聞いてやるだけでよいとすれば、
事は割と容易であるかも知れない。
しかし その様なケンに私が有効に介入して行くと言うのは
当然簡単なことではない。
私は一体この状況に どう立ち向かえばよいのであろうか。
道は遠く 果てしないようにも思われる。
結局私は こっちからにしろ あっちからにしろ
彼へのアプローチや手段は 本来 私の中には全く皆無なのである、
と言う事実に、総ての事の始めに
先ずは 明確に気づかなければならない様である。
私に出来ることは一つだけ:
それは、この仕事は私の ではなく キリストの仕事であることを
知り受け入れること、 次に私は決してジタバタすることなく、むしろ
「 観念し、責任を放棄し 」 主ご自身が自由に ケンの状況総てに
入り込むことが お出来になる為の
幾つかの条件を整えることだけである、ということである。
☆
それではどうやって キリストに入り込んで頂くことが出来るのか?
それは 「私がイエスと一つになる」と言う手段による。
何故なら 道とは唯 主イエスお一人であるのだから、
この人以外に「方法、手段」というものはないのだから。
さて問題は次に その主と一つになる道とは何なのか、
どうすれば 私はキリストと一つになり得るのか、 と言う事になる。
当然 その道が私の中になどあろう筈がないし
また、その道に至る力、手段などなお更 私が所有する筈もない 。
これは当たり前のことなのだ。
だからこそ私には「総てであるキリスト」が必要なのである。
誤解してはいけない、誰がキリストであるかを。
忘れてはいけない、私は もらうことしか出来ない者であることを。
私になし得ること、それは 「この宇宙で一人 キリストなるイエス」が
もう既に 私と一つになって下さった、 と言う彼の「達成」を信じる事、
「それはもう完成されたのだよ!」と命を捨ててまで
切実に主張 断言された キリストの言葉を 素直に信じ いただき
その御言葉の上に安心して休息する事だけなのだ。
だからこそ これは福音と呼ばれている。 (ローマ1章)
それにしても この福音は 何と完全な福音であろうか。
もし私に何かを仕上げる責務等が少しでもあるとするならば、
それは福音ではない、お恵みではない。
それはきっと 単なる働きに対する当然の報酬に過ぎないであろう。
☆
どうやら 私は今日を入れてもう5日間、或いは更に長い期間
私がよりキリストを知って行くための ケンというとても良い環境を
主から頂いたようである。
ケンが小屋に来た、そして私の人生にも来た。
もうこれは逃げられない。
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