2011年6月29日水曜日

悪霊達の「礼拝」

汚れた霊どもが、イエスを見ると、
みもとにひれ伏し「あなたこそ、神の子です。」
と叫ぶのであった。(マルコ3の11)

ここに
「今日のいわゆる礼拝」に勝る「礼拝」を見ます。
彼等のイエスを見る認識は今日の礼拝者を
はるかに越えていたことでしょう。(彼等は何も彼等の
親玉・サタンを拝んだのではありません。)

ところで「彼等の礼拝」において、「イエスを信じる」
(believe.into.Jesus)ということがあったでしょうか。
それはイナです。その時、彼等にはもはや、それをする機能は
失われていたのです。
彼等はただ「神はお一人だと信じて恐れていただけ」です。
(ヤコブ2の19)実にそれこそが、彼ら悪霊達の、
そして今日の宗教における「いわゆる礼拝」の本質です。

だから今日「父が求めておられる礼拝」とは
「このような礼拝以上」でなければならない
ことは明らかなのです。

イエスは彼等を救われたでしょうか。当然イナです。
彼等の「礼拝」を神は喜ばれ、評価されたでしょうか。
断じてイナです。救われるどころか、今彼等のために
準備されているものは「想像を絶する悲惨な滅亡」です。

問題はどこにあるのでしょう。
それは時です。彼等は過去のある日「彼等に準備された時」
をムイに過ぎ去らせてしまったのでしょう。

私達にとっても
神と神の言葉を真に「信じる」ことができる日は
そんなに長くはないことを知るべきです。

8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

悪霊達が主を礼拝しているとは、あり得ない事でしょう。これは単に告白であり、宣言であり、それ以上でもそれ以下でもある訳がありません。
聖書のどこに、悪霊達が主を礼拝している箇所があるのでしょうか?

Mr.Sugar さんのコメント...

よい指摘を有難うございます。

今日、私が用いた「礼拝と言う言葉」は単に
①恐れの中で、ひれ伏す、拝む、恐れる
行為を意味しております。

さて
「彼は(悪霊は)イエスを見ると、
御前にひれ伏し(prospipto)大声で
言った。
いと高き神の子、イエス様・・私を苦しめ
ないで下さい」(ルカ8の28)
の中の、イエスに対する「ひれ伏し、
懇願する」行為は
今日「宗教の中に見られる礼拝」①と
外見的には、ほぼ同じではないでしょうか。

しかし、原語によると

本来、新約聖書で言う真の「礼拝」
(proskyneo)とは、
「上記のような礼拝」とは、驚くほど
異なっており、むしろ(愛犬とでも
戯れ愛するように)
「愛すべき者を愛撫する」というような
意味が深いと聞いております。

ですから仰せのとおり、結論としては
悪霊に②の様な「真の礼拝」は決して
あるはずはない、と私も固く信じて
おります。それは当然のことです。

(或はその差異は、イエスに対する真の愛が
あるかないのか、であり「聖書でいう礼拝」とは多分に内面的なものなのでしょう。)

要するに私が大切にしたいことは
「世間や宗教で言う礼拝」でなく
「聖書でいう礼拝」です。

それにしても
prospiptoとproskyneoは似ています。
どなたか、その語尾の意味の差異について
教えていただけたらと願っておりますが・・

エシュコル さんのコメント...

prospiptoは「前に倒れる」「(~の前に)ひれ伏す」という意味で、プロスクネオーのように敬意や主従関係のニュアンスは特にないようです。piptoという単語があり、それが「上から下に降る」という原義を持っています。

proskuneoは(敬意や主従関係を表すために)「ひれ伏す」「ひざまずく」という意味のようです。kuneoはkuon(犬)に由来すると考えられています。犬が主人の足元に座って主人の手をなめるように、人が神を崇拝する(神に口づけする)ことを表すニュアンスがあるようです。


だそうですが、どうでしょうか?

Mr.Sugar さんのコメント...

有難う、参考になります。

「真の礼拝」(ヨハネ4章)の原義は
「犬が主人の手をなめるように
主人を愛する」と大いに関係がある
と言う事実は重要です。それは
非常に親しいor「なれなれしい?」愛の
表現です。

イエス様がproskuneoと言われた時は
正にこの意味で言われたのであって
それは
「週一度かたく厳守するべき
決まりきった行為」とは、
ほど遠いものです。

更に、
礼拝と訳された原語は一つではなく
数多くあるようです。(旧約でさえ
少なくも9つ)

それを一律に
「礼拝」という、わざと
「おごそかな雰囲気を与える言葉」に
置き換えたことに大きな問題があるのです。

一つ一つの場面において
翻訳者は原義にふさわしい別々の訳を
するべきです。(当然、中には
礼拝と訳されるべき語もあるでしょう。)

そうしなかったのは
その背後に「ある明確な意図」があった
のではなかろうかと
私は予測しております。

どなたか、
新約聖書で礼拝と訳された
総てのギリシャ語の本来の意味を一つ一つ
丁寧に洗い出して下さったら
それはカチある仕事となるでしょう。

なぜなら、
それは「現今の一律訳」によって
聖書を誤解している多くのキリスト者を
救うからです。

当然ですが
私達は「歴史的キリスト教」に従うべき
ではなく、あくまでも「聖書の原典」に
従うべきであるからです。

JOY さんのコメント...

アーメン。
本当にその通りで、それを望んでいます。

Mr.Sugar さんのコメント...

私自身、時間があれば
やりたいのですが・・
と言ったら、ノンキな山暮らしなのに・・
と思われるむきも多いことでしょう。

エシュコル さんのコメント...

>新約聖書で礼拝と訳された
総てのギリシャ語の本来の意味を一つ一つ
丁寧に洗い出して下さったら


尋ねてみては如何ですか?
http://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/

Mr.Sugar さんのコメント...

有難う。