今日 真の霊的な力、霊的な宝はどこにあるのだろう。
それはこれ見よがしのパフォーマンスや
パワフルなメッセージ等にあるのだろうか。
否、それはむしろ意外にも
人の日常生活の中の ある種の静けさやさり気なさ
の中に存在するようである。
前者はなるほど人々を引きつけるある種のパワーを
持つかもしれないが、一過性と言う明確な短所も併せ持つ。
それは人に一時的な感動や興奮を与えることが
出来るかも知れないが、そこからあの深く天的な霊的力が
静かな生命現象を生み出して行く
と言うことは原則的には難しいようである。
この役目はあくまで補足的なのだ。
所が後者には 賑やかで人目を惹く何物も存在しないが
今述べた 不思議な生命現象を水の波紋のように生じさせる
可能性を秘めているように思われる。
神は不思議にも、この宝を宝物箱の中ではなく、
土の器の中に置かれたのである。
もろい人間の命の中に、その普通の生活の中に、
キリスト者達のさり気のない触れ合い語り合いの中に
置かれたのだ。
これがキリスト者が今日
「人間性、日常性、さり気なさ、自然さ、安息性等を互いに共有する交流」
を極めて重要視ししなければならない理由である。
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