(マタイ9の28)
・父親は言った。「もし お出来になるものなら」
するとイエスは言われた。「できるものなら?」(マルコ9の23)
これは原文的には「何っ 出来るものならだと!?」
と言う意味だそうである。
何とここで イエスは多少 ケシキばまれたのだ!
・「神の業を行う為に、何をするべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。
「・・信じること、それが神の業です。」(ヨハネ6の28、29)
これらは 私達の「信じること」に対する「イエスの執着」
を示す言葉である。
全聖書とイエスの主張、それはつまる所「信じなさい」である。
私達は信者と呼ばれている。信者とは要するに信じる人である。
打者は打てばいい、走者は走ればいい、
だから信者は ただ信じればよいのだ。
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ところが私達は実際の所 あまり信じていないのではなかろうか。
何となく信じている ではなく イエスの真理の何をどう信じているのか
が大切なのだ。イエスの言葉は皆具体的である。
だから「何となくイエスを信じている」は本当に
信じていることになるのだろうか。
実際は殆ど信じておらず 単に「何をするべきか」と考えているだけではなかろうか。
私達は「具体的に何かを本当に」信じてみて、そこに何が起こるかを 見てみたらよいのである!
明日から2週間 そんな気持ちで「下界暮らし」をします。
実は今回 神の真理の何をどう信じるか のテーマはもう決定済み、
結構わくわくしているのです。
浴室作りも 少しは未練がありますけどね。
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