ここまで見てくると
礼拝は「時間と場所を限定した所で行われるセレモニー」
などではないことはあまりにも明らかであり、それを最早
ことさら強調するまでもないように思われます。
礼拝は愛がその源であり、愛は24時間であるからです。
例えば、子供は
お母さんを愛しています。その愛は24時間ではないでしょうか。とは言え
幼稚園に行っている間、子供はずうっとお母さんを意識し、常にお母さん
への愛を実感し続けることは出来ません。それは不可能です。
だとすればそんな時には子供はお母さんを愛していないことになる
のでしょうか。いいえ、そんなことはありません。
子供のお母さんへの愛は
お母さんを愛するという意識と感覚よりも更に深い所にあるからです。
その愛は子供の存在とお母さんの存在の深い結びつきそのもの
の中にあるのです、愛はこの両者の「一つ」の中にあるからです。
ですからその意味で本来、子供のお母さんへの愛は
不動であり24時間です。
お父さんの子供への愛も
同様です。子供を意識することがない彼の会社勤務の間でさえ、
彼は子供を愛しています。やはりその愛は彼の、子供との結びつきの中に、
父と子の深い命の結合の中にあるのです。愛は命の中にあるからです。
会社における彼の辛い勤務、それは
彼の子供への愛の表れです。その勤務は彼の子供に対する愛の結果
生まれてきた所の子供の為の言わば 陰の「奉仕」であるとも言えましょう。
お父さんの生活における総ての行動、姿、在り方でさえ、お父さんが
眠っている時間も含め、総て子供への愛の表現です。
人間の家族間に存在する本来の愛、
それは 言わば「24時間性」のものです。なぜなら愛は命の中にある
からであり、命ある限り 愛はそこに自ずと存在するからです。
何と命は時間や場所の拘束を受けることがないのです。
罪に落ち込んでしまった私達人間の
親子の愛にさえ 以上の様なことを言うことが出来るとするならば、
ましてや、神の人に対する深い永遠の命を源とする私たちの神への愛が
時間の制限を受けず24時間であることは
当然過ぎるほど当然のことである、と言わなければなりません。
確かに私たちの神への礼拝は24時間なのです。
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