2008年9月7日日曜日

あるメールから(3)

『自分の十字架を負う』『自分を否む』『十字架の閉じ込め』
『私ではなくキリスト』というテーマをつらつらと思い巡らしておりました。
このテーマは今ままでも何度も思い巡らしたテーマです。

今までの私の感覚は、キリストに頼って生きる、しかも100%頼ること、
というものでした。しかしこれではどうもしっくり来ない、という思いが
どこかにあったのです。そして今日気付いたのです。

それは、私にとっては100%キリストに頼って生きるということも、
実は間違っていたということです。100%キリストに頼って生きるという
言葉はきれいで響きがよく、多くの人がうなずくとは思うのですが、
頼るという感覚がどこかに少しでもあるのなら、それは自分がゼロに
なっていない、つまり100%頼る生き方は実際的には(原理的には)
あり得ないと思ったのです。どうしても1%、0.1%は古い自分が
生きているはずです。

「私ではなくキリスト」というのは、「自分はもう死んだ、だからキリストしか
生きようがない」という理解の方が、ピンと来るようになったのです。
だから古い私が死ぬ、というのはとても重要だということになります。

しかしこのような状態が一日の中でどれくらいあるだろうか、と思うのです。
自分の前に何か大きな問題が立ちふさがり、にっちもさっちも行かない
時や聖書の言葉や霊的な人達の言葉に触れた時などであれば、
この状態に戻ろうという思いが湧いてくるのですが、何も問題もなく、
あるいは肉的状態に熱中している時は、
こんなことを思うことはないと思います。

しかし最近、日常生活の中でも、キリストでなく「自分が生きている」ことに
ふと気付くようになったのです。このようなときは、『古い私はもう死んだ、
私は今、キリストと一つになった存在として生きている』という真理を
思い出すようになり始めました。

とは言っても、古い自分で生きている感覚と古い自分は死んで、
キリストだけで生きている感覚の違いが自覚できるわけではありません。
いずれにせよ、一日の終わりに、今日は古い私が死んでキリストに生きて
もらった時間は どのくらいあったのだろうかと思い巡らすことはいいことだ
と思うようになりました。

私ではなくキリストとは、キリストに頼って生きることではありませんね。
ちょっと秘訣が分かったようで嬉しいです。 それではまた。


「私はキリストに頼って生きるぞ!」と言う幾多の試みの果てに
「キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤ2の20)、即ち
「キリストが私において、キリストが私との一つにおいて生きておられる」
が来なければならないのでしょう。主語はキリストです。確かにパウロの
意味は「私が(キリストに頼って)生きる」と言うのではない筈です。
それではやはり 疲れが残ります。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

今日は、会社関連のチャリティーゴルフに参加しなければならない。さて、2007年46歳の若さで腎臓がんで亡くなった女性哲学者 池田晶子さん(アニメーターの池田晶子さんではない)と2002年102歳で亡くなったドイツの哲学者 H・G・ガダマーとの会話。

ガダマー:哲学というのはだれもが問いただせるもので、宗教であり、信仰であり、しかし大衆が哲学をとらえるのは難しいんですけれども、それはヨーロッパでも、日本でも同じだと思います。しかし、14歳から20歳の間に、みんな一人一人が死について一度は考えると思うんですね。それ自体が哲学なんです。

池田:私もそう思います。でも、いま宗教と哲学ということをおっしゃいましたけれども、精神の機能として、信じる、信仰するということと、理性によって考えるということはあくまでも別だと私は思うんです。と言って、決して存在、すなわち自分を超えた何かを否定することではなく、しかしそれを信じ込むのではなく、考えるということこそ、宗教のないこの時代こそ哲学、すなわち理性によって考えること、理性の復権というものがこれから再び必要になると私は考えますけれど。

信じるということについて、理性でいくら考えても分かるものではないとは思っていても、信じるということについての不思議さをなぜに軽視してしまうのだろうか?信じるということを信じ込むと言い換えているくらいだから、大きな溝を感じざるを得ない。存在一つを取っても哲学者は理性、思いを使って思考する。存在とは神の別名であり、神のみが存在なのだ。我々は創られたものに過ぎないのだから、本当は存在ではないのだろう。しかし我々は信じることにより、本当の存在になれるのだから不思議としか言いようがない。

匿名 さんのコメント...

最後に「本当の存在になれる」と書いてしまいましたが、これは神になれるということではありませんのでご注意を。まことの存在と一つになれる、まことの存在の命に与れると言い換えていいのでしょうね。これについても、キリストに頼って私が生きるというスタンスではなく、(古い)私は完全に死んでしまったので、キリストしか行きようがないということの方がピンとくるのですね。ですからどんなことでさえできる、どんな病でさえ
そこには存在しないということになります。ただこの状態になっていないにもかかわらず、治療を止めてしまうというのはとても危険なことだと思います。しかしまことの生ける信仰に達したとき、どんな病も癒されるのは当然だと思います。神にできないことなど存在しないのですから。