2008年9月8日月曜日

時空も神の創造物です


キリスト者はよく「御在天の父なる神様」と祈りを始めますが、
実のところ この意味は相当深いようです。まず、それは私たちの
お父さん としての父なる神と言う意味です。私たちが神を「お父さん」と
呼べるとは何たる幸いでしょう。これは父親と言う意味での父です。
しかしそれにはもう一つ、
「総てのものの源なるお方」と言う意味があります。

さて聖書に「万物」或いは「あらゆるもの」と言う表現は数多く出て来ますが
私たちはこの言葉を神の言葉としてそのまま受け入れるべきです。
即ち、当然のことながら神が万物と言うからには、それは文字通り
万物であって「総てのもの」を意味するのです。


ところが何故か多くの人は、万物を「この時間と空間の中に存在する
総てのもの」と捉え、時間と空間そのものは、「総てのもの」から
除外しているように思われます。時空だけは「もの」としてカウントしない
のです。宇宙だけは完全別格あつかいです。なぜでしょう、
これは実に不思議なことです。

しかしながら、時間と空間も、物理学で取り扱うことの出来る
「もの」であることは明らかです。「総てのもの」から、例外として
時空だけを除外することは理屈に合いません。時空 即ち宇宙でさえ、
それは「もの」なのであり「万物」に含まれなければならない筈です。
宇宙は決して別格ではありません。宇宙・時空も物質であり、明らかに
神の創造物です。このことは、後述することもあるかも知れませんが、
極めて大きな意味を持つことになるのです。

当然 時空は相当大きいものです。(「物理的には」それらは
永遠であり無限にさえ見えます。しかし最近の科学者は別のことを
言っているようですね。)だから時空はあらゆる他の物質の
「入れ物」であると言えるでしょう。即ち私達は、時空と言う「もの」の中に
他の総てのものが存在している、と考えるべきではないでしょうか。

キリスト者でさえ時に、「この無限永遠の宇宙の中に、神は存在して
おられま」す、と言うような言い方をします。しかし、仮にもしもそうで
あるならば 少なく見ても宇宙は神と同等か 時間的 或いは空間的には、
宇宙が神よりもより偉大であることになってしまいます。 もしも仮に
そうであるならば、「総てのものの根源である父なる神」は成り立たなく
なってしまうのです。

この考え方の中から、一つの思想、「宇宙・物質は時空的永遠の昔
から存在し、そしてその中心は地球であり、そのまた中心は人である
から、この物質宇宙を認知できる人類が万物の霊長であり、神でさえ
あるのだろう」が生まれて来たのかも知れません。そこには宇宙と人間を
何か特別なものとする思想があるように思われます。そして
その背後には、出来るならば 「真の永遠」である神(或いは、
「彼らの宇宙」の中に存在する神)を退け、人と物質を神としたいものだ、
と言う強い願望が横たわっているように私には思われるのです。かように
「宇宙は無限であり、永遠である」の根は相当に深いのです。


しかし当然これは間違っています。 人は人、物は物、宇宙は宇宙に
過ぎないのです。私たちは単純に「神は神です、私は神のみを神とします、
神は総てのものの父であり、根源です。」 と 言わなければなりません。

神のみが唯一全能であり無限、そして永遠なるお方であり、彼こそが
「総てのもの」の源です。私たちはそもそも、そう言う存在に対してのみ
神と言う名前を与えたのではなかったのでしょうか。だとすれば単なる
被造物である時空は 無限でも永遠でもないことになります。その意味に
おいては この物質の宇宙・時間と空間にさえ、定められた限界、
そして その始まりと終りが確実に存在するに違いありません。

この事実を 神の言葉は実に簡明に記しております、「万物は御子の
中において創られた」(コロサイ1の16)と。 「宇宙の中に御子がいる」
のではありません。万物は「御子の中で」創られたのであり、
神の子・御子(「人の子」でなく)は万物・宇宙を超越しているのです。
神と御子だけが永遠であり、無限なのです。
「初め(永遠の過去)にことば(御子)が在った。・・ことばは神であった。
・・総てのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方に
よらずに出来たものは一つもなかった。」(ヨハネ1の1、3)


多くの人は当然の如く この時空・宇宙こそが 総ての総てである
と「信じて」います。何故でしょう、何故なら その考え方には初めから
「真のリアリティである永遠」が除外されているからです。しかし実の所
それは、もし出来得るならば 自分の頭から「宇宙・時空をさえ
創造された存在、絶対的に義しいお方なる者」を除外したい、と言う
願望に過ぎないのです。その願望の理由は簡単です。もしも
そういう存在が本当にあるとするならば それは 自分の
「自由な」生き方にとって どうにもこうにも都合が悪いからです。
人にとって神は大いにケムタイのです。

不思議なことなのですが あのゴルゴタの十字架の周りにいた人々も
「除け、除け!」と絶叫しました。彼らも何とか、あの「私は在る」であられる
お方を彼らの目から、彼らの思いから そして出来ることなら、この時空
からさえ除き去りたかったのです。「人類の究極的な願望」が あの一つの
叫びの中に凝縮されていた とさえ言えるでしょう。そして
ある意味において、彼らの企ては 完全に成功したのです。即ち 人類は
その願いの通りに彼を 「時空から追い出してしまった」のです。


しかしながら当然、被造物に過ぎない人間が単にその頭脳と目から、
そして この時空から彼を除外することに成功したとしても、「正に存在
そのもの」であられるお方を真の意味で除外し消し去ることなど
出来る筈がなかったのです。何故でしょう、人の子イエスは
「更に大いなる真の存在・ キリストの復活」の中へと入られたからです。

私たちはあの十字架の場面において、計り知れない
神の偉大な知恵を見ることになります。
即ちあの時、I AM (私こそ真の存在)であられ、また全き「人」
であられたイエスは その「除け、除け」の怒号を巧みに捕らえられ、
それを「人の子としての御自身」をして、時空から永遠へと飛翔させる
機会とされたからです。人類はあたかも人の子を時空から
取り除くことに成功したかに見えたのですが、彼はそれを 人の子が
時空を遥かに凌駕するチャンスとされたのです。

更に彼は その「除け、除け」を、私達彼を信じ「彼と一つとされた
人の子達」 さえをも、この時空世界から「彼の永遠」(復活:不死、
無制限時空への超越、更に彼御自身)の中へと
もたらす千載一遇の機会とされたのです。


・「私が(十字架に付いて)地上から上げられるなら、私は総ての人を
私自身に(原文)引き寄せます。」(ヨハネ12の32)
・「私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを
私自身へと迎えます。」(ヨハネ14の3)
・「ああ、神の知恵と知識との富は何と底知れず深いことでしょう。」
(ローマ11の33)


昨日書いたものと比べ、言いたいことは全く変わっていない
のですが、表現の上で相当変えたところがあります。
再読してくださったらとても嬉しいです。 

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私たちは、キリストとともに死んだ。そしてキリストとともに復活した。ということは私たちも死んだ後、天(永遠)に昇ったということになり、その後この時空に降りてきたということになります。おぉハレルヤ、古い私は完全に死んだのです。ですから古い私は生きたくても生きることができないのです。
永遠からこの時空に降りてこれるのはただ神だけです。しかしこの時空内で創造された被創造物(もちろん敵やこの時空も含めて)は永遠に行くことは不可能です。ということは前述したこの時空に降りてきた私とは何なのでしょう?どのようにしたらこの時空に降りてこれるのでしょうか?答えは唯一つです。キリストとともにです。よってこの時空に存在するキリスト者は、間違いなくキリストと一つなのです。そしてまたこの時空に降りてきたは、神の職務、つまりこの時空に閉じ込められていて、まだ救われていない人々のためということになります。しかし、古い私はキリストとともに死んだ、キリストと一つであるを信じないならば、物質的現実が目の前に展開されるだけです。