2008年9月21日日曜日

一幅の巨大な図式

時空とは、ある明確な目的のもとに神によって創造されたところの
時間と空間の一定範囲です。その構成要素は基本的には物質です。
(しかし創世記1の1の簡単な記述及びその他から察するに、
神はそれらの時空の中の万物をすべ治めるべき「物質を超えた霊的で
極めて高度な生物」をも創造されたことでしょう。)
さて、時空の中に創造された万物の目的とは
「永遠である真のリアリティ」を絵として描くことでした。

例えばここに一つのリアリティとして命と言うものを取り出して見ましょう。
先ず真の命、真のリアリティとしての命ですが、これは聖書では「永遠の命」
とも呼ばれております。それは完全な命であり、真の真、真の新、真の美、
真の善を併せ持つものであり、その命には始めも終わりもありません。
命と言うものは元々そうであってこそ命です。完全な命というものがあると
するならば、それは永遠の命でなければならないのであり、
死、衰退、腐敗、汚染、虚偽などとは全く無縁なものに違いありません。
それが「命」と言う素晴らしい名前で呼ばれる以上、
命とは本来そういうものでなければならない筈です。

次に時空の中に存在する命を見てみましょう。その役割はこうです:
即ち時空の中に存在する無数の多種多様な命は総て、
「あの豊かさに満ちた永遠の命」の各面を描き出す為の絵なのです。
換言すれば地上の総ての生物の体系は、完全な命を推奨するべき
ある「一幅の巨大な図式」であるに過ぎません。それは将来ある時、
その完全な命が到来することを暗示し、期待させると言う使命を持つ
「おびただしい数の命の写真からなる一つの体系」なのです。
その意味において、地球全体は真の命を描く為の
「神の一大キャンバス」であったと言えましょう。

さて今、この巨大な図式の中の一隅に描かれている、とても小さな
被造物に注目して見ましょう。例えば山路にひっそりと咲くスミレという
可憐な命 、このはかない命でさえ私達をして その背後に確かに存在する
偉大で完全な、しかし決して「これ見よがし」でない謙虚で純粋な真の命
(即ちあのイエスキリスト)を想起させ、それを慕い求めさせるのです。
このことこそ極めて重要な神の創造における目的の一つです。

山路来て なにやらゆかし すみれ草 
(芭蕉)

4 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

この世界をよく見ていると実によくできている。こんなによくできているのなら、これは偶然にできたのではなくデザイナーがいるに違いないと言ってあめりかの多くの科学者たちがクリスチャンになるそうです。 
私の父も私がこのことを語ったときに救われました。

Mr.Sugar さんのコメント...

どうして「偶然に」ということを
信じられるのでしょう。
偶然に、と言うことは何も説明しないこと、
そうなったからそうなった、と言っている
のです。(あそこに東京タワーが建っている。何故か、
それは偶然にそうなった、
そうなったからそうなった!?)

しかし、「初めに神は天と地を創造された」
は何と明快な説明でしょうか。
私達の神は明快な神です。

匿名 さんのコメント...

はじめまして。ルークさんのところからたどって来ました。時々拝見しています。
私の娘が実はsumireと言いますが、今回の記事を読ませていただきましたが、芭蕉がこのような句を作っていたことを初めて知り、少しうれしくなり書き込みさせていただきました。

また、訪問させて下さい。
(「時空」の記事も興味深いです。)

Mr.Sugar さんのコメント...

スミレさん、いいお名前ですね。
山小屋のあたりのスミレはタチツボスミレ
というのだそうです。とても淡い紫色で
山道にひっそりと可憐に咲きます。

スミレさんと一緒に
一度、小屋に来られませんか。