前回見たごく基礎的な命に関する知識から発展して、今回は
「この命に関する話は遂には相当 壮大かつ複雑な風景を眺める
ことになる」と言いたいと思います。
なぜ命を描く絵は複雑なのか、それは
①神の敵がこの命の問題全般に関わっており 問題を極めて
ややこしく複雑にしてしまったからです。 更に
②通常私たちが取り扱い関係している「時空内生命」のほかに
「時空を超えた命」と言うものが存在することを聖書は当たり前のように
示しているからです。この「時空を超えた」というテーマ自体既に
「途方も無い」話となってしまいます。
しかしそれは 聖書を総ての拠り所とする私達にとっては避けて通れない
テーマです。何故なら聖書から永遠を差し引いたら 間違いなく聖書は
聖書でなくなってしまうからです。既に「神自体」が時空を超え、
永遠のものではありませんか。
従って私達はこの「時空を超えた」と言う話を「わかる筈がないでは
ないか」等とバカにしたり敬遠したりせず真面目に正面から取り扱う
必要があります。私たちが真剣に求めさえしたら 神は確かに永遠を
真に知る「知恵と啓示の霊」を送って下さるでしょう。
(元来人には既に永遠を知る能力が与えられているのです。人は元々
神によって永遠性の存在として創造されているからです。私たちは単に
「永遠を思う」に留まらず「永遠を獲得する、永遠と一つになる」
ところにさえ進み行く必要があるのです。)
聖書は明確に「時空を超えた世界がある」ことを告げます。と言うよりも
聖書はこの永遠の世界こそ、リアリティ(実際)であると断言するのです。
即ち聖書は「時空を超えた世界こそが真の世界」であり、方や
「時空の中の世界」は単に「永遠の世界」を描く絵に過ぎない、と
当然の如くに主張するのです。
もしもそれが本当なら 私たちが日々接しているこの世界は総て
絵、或いは影、模型に過ぎないことになります。言わば現実であると
私たちが信じて疑わないこのリアル感溢れる世界は実は「真の現実」
ではなく、「真の現実」を映している単なるスクリーンに過ぎない、
と言うのです。これは確かに途方も無い聖書の主張です。
この時空内世界、物質世界には多種多様な無数の命があり、その
最高峰に人の命があります。しかしこれら総てに敵の
ウソと死と汚染が深く浸透しているのです。
方や、永遠の世界にも多種類、無数の命があり、その最高峰に
神の命があります。
この二つの領域内の総ての命が①自己保存の欲求②結合・一つに
なることへの欲求③増殖、豊かさ、繁栄への欲求に深く関わって
いるのです。その関わりの中で決定的で最重要のものが間違いなく
キリストの受肉、十字架と復活、昇天です。 かように、
命の話がどうしても極めて深く広大、複雑な様相を呈するのは
どうしても避けられないようです。
*
私はこの「絵の世界」が価値のない世界であると言いたいのでは
ありません。そこにも極めて明確かつ重要な意味と使命があります。従って
私たちは「時空世界の位置するべき場所」を知る必要があるのです。
*
聖書は この時空を超えた世界を「永遠の」「神の」「天的」「見えない」
「実際の」「真理の」などと言う言葉で記述しております。
*
多分後述するでしょうが「永遠の」はエバーラースティングでなく、
エターナルです。即ち永遠は このエンドレスな「時空内時間」ではなく、
全く異質、極めて高度な「実体」です。そして更に時間的要素は
永遠の中のホンの一部に過ぎないことを知らなければなりません。
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