2010年6月28日月曜日

先ほど あるメールから

今や、どこを見ても、
私は自力で この状況から逃れる道を
見出すことはできません。
自分ではどうにもならないのです。
精神的にも実際的にも 全く身動きが取れません。
まるで暗く狭い場所に閉じ込められているかのようです。
今の私には、
この苦痛から逃れることしか考えられない、
と言ってもいいでしょう。


しかし
不思議な平安と充実感があるのです。
今の期間は主の訓練であり、
平安な義の実を結ぶに至るものである、
という信仰があるのです。

自分にとって、主の訓練はいつも、
まったく絶体絶命、ギリギリのところまで
追いつめられるものばかりでした。
余裕を持つ暇(ひま)など、一切ありません。
この環境はとても厳しく 実のところ
弱音をはくこともあるのですが
父なる神に、私は子として取り扱われているのだ、
と信じることが出来るのです。

限界点に達した時はよく、
主からの光を得て感動させられ、
励まされ、力が与えられます。
主の照らしを受ける時、
癒(いや)しと慰めがハッキリと与えられます。
その時フト 苦痛が消え去ってしまうのです。
これはとても不思議です。

これまでは、
涼しいところ、暖かいところで、お茶を飲みながら、
ゆったりと主を語り合うことしか知らなかった自分です。
私の信仰は何と幼なかったことでしょう。

今は、毎日が荒野のようです。
しかし私にとって
その「荒野のただ中で私に出会って下さる主」
を知ったことは、
何にもまして素晴らしいことでした。



皆さん、この兄弟の為にお祈りください。
正直「私の実感」の中では主はなぜ いつまでも
この兄弟をこのままにしておかれるのだろう、
と言うものです。

2 件のコメント:

Willie Yanaka さんのコメント...

見知らぬ兄弟のためにお祈りさせていただきます。

でも、兄弟の信仰は本当に素晴らしいですね!荒野のただ中で私に出会ってくださる主。果たして自分はその主に出会ったことがあるだろうかとふと思います。

Mr.Sugar さんのコメント...

聖霊が彼の霊に語られたのだ、
としか言いようがありません。

しかしながらそこにも
「人の果たすべき分」はあると思います。
それは
彼が暗黒の中、何も感じられない中
ただ手探りするしかない中でさえ、
「かすかに」神を信じ続けられた、
ということではないでしょうか。
(99歳のアブラハムのように)

しかしまだ、
主の彼への訓練は続きます。
エクレシアの祈りが
何と必要なことでしょう。