2010年6月29日火曜日

昨日の証しを読んで

*あるメールから*

僕の場合は、試練や困難があると
つい神から罰せられているとか、
懲(こ)らしめられていると思ってしまうのですが、
実は訓練なのですね。
改めてそう思いました。

以前の僕の信仰がそうでした。
外面的な、目に見える祝福があれば
とても喜び感謝し、試練や困難が来ると
必死に回復と祝福を祈る、というパターンでした。

しかし一番大切なことは 
「主の御心と主が備えられている道」に焦点をあて 
そのようにして、僕自身が主からの取り扱いを
むしろ「喜んで」受け入れることではないでしょうか。
今 父なる神が彼の愛の中で 私たちを
そのような道へと導いて下さっていることを信じます。

比較することではありませんが、
御子イエスも「十字架に向かう」という壮絶(そうぜつ)な
道を歩まれました。しかし父なる神はそれに対して
何もされず ただ黙されたのです。
これは何ということでしょう。
このことをどう表現したらいいか分かりません。しかし
それは 私たちに対する大いなる神の愛からのものです。
これは、よく私達クリスチャンがイメージする
「いわゆる愛」とは相当違うように思います。

そこで
私たちに対するこの「神の取り扱い」は 
そのような神の愛と決して切り離しては考えられない
のではないでしょうか。しかし確かにそれは神御自身から
に違いないのです。本当に神を賛美します。

全てが 
神の愛の御手のなかにあることを信じ
この兄弟の為に祈ります。

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