2010年6月27日日曜日

KMさんへ

ヨハネ10:16を見ると、
教会とは一人の人である ことが明確ですね。


ハイその認識はとてもすばらしいと思います。
教会(エクレシア)とは一面 
時空を超えた存在であり、もとを正せば
「一人の人」に他ならないことは
新約聖書の大きな主張です。
簡単に言えば その一人の人とは 
「あのブドウの木」そのものであり
「今日の奥義的な天地におられるキリスト」です。

この「今日の奥義的な天地のキリスト」を
「霊的な目で見る」ことは その人の人生を
完全に変えてしまうほどスゴイことです。
(ハドソン テーラーのように)

「今日の奥義的な天地のキリスト」こそ
エクレシア(真の教会)なのですから
キリスト者が一人一人 総て 
キリストにある(IN CHRIST)キリストと一つ
であれば この時空の中でさえも 
教会には何の問題もなく教会は完全に一つの意志のもとに
存在していることでしょう。
何故ならエクレシアとは 一人の人であり
健全な一人の人の中には分裂などあり得ないからです。

ですからムリに 
組織や気合「魅力的な礼拝やメッセージ」などで
教会を一つにしようとするのは(汗が出るばかりで) 
完全なお門違い(おかどちがい)と言えるでしょう。
必要なのは一人一人が「キリストにある」という
真理を追い求め それを真に見ること知ることであり、
更にそれを実際生活の中で経験することであると
私は考えております。(汗とは人の血肉の奮闘と
「のろわれ」の象徴です。創世記3章)

しばらく実家の方に来ておりました。
でもそろそろ 山に戻ろうかなと
思っております。

1 件のコメント:

ビオラ さんのコメント...

1.教会とは一人の人のことではない。

シュガーさんがご指摘のヨハネ10:16にはこうあります、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

ここには、教会は一人の羊飼いに導かれる一つの群れであると書いてありますが、教会が一人の人であるという記述は全くありません。ですから、これを基にシュガーさんが「教会とは一人の人である」と主張されるのでしたら(章節の書き間違いでなければ)、それは御言葉の歪曲になります。

2.教会はキリストを頭とする一つの身体である

エクレシアは、キリストを頭とする一つの身体です。エクレシアそれ自体が一人の人なのではありません。エクレシアはキリストの頭首権に服するあくまで身体に過ぎないのです。私たちがヘッド(頭)なのではありません。そのことはエペソ5:23を見れば明らかです。「キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、…」

従って、エクレシアの成員に必要なのは、キリストを霊の目で「見る」ことよりも、何よりもまず、キリストの頭首権に服することであると思います。キリストの頭首権に服さないならば(「キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない」(コロサイ2:19)ならば、たとえどんな霊的経験を誇っていたとしても、その人はエクレシアに属していないのです。

3.キリスト者一人ひとりはキリストを頭とする一つの身体を構成する肢体である

キリスト者一人ひとりは、キリストにあって、全体で一つの身体を構成している各肢体です。「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(Ⅰコリント12:27)

ここに、キリスト者が地上では単独で存在し得ないゆえんがあります。キリスト者は、神の御前では単独者でありますが、地上では、肢体として互いに補い合う関係にあるのです。

肢体同士は互いに分裂せずに、いたわり合うようにと、御言葉は勧めます(Ⅰコリント12:25)。「兄弟愛を続けなさい。」(ヘブル13:1)とも命じられています。私たちキリスト者は、地上で互いに愛し合い、いたわりあい、励ましあうことを心がけるべきであり、また、それぞれが生ける石として(一つの)霊の家に互いに築き上げられるべきことを御言葉も教えています(Ⅰペテロ2:5)。

4.キリストにあって一つの身体である以上、キリスト者が共に集会を開くのは当然です。

新約聖書には、キリスト者が一つ所に集まって集会を開く光景は多く存在します。一例を挙げれば、「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」(使徒2:42)

彼らが一つ所に集まっていたのは、シュガーさんがおっしゃっているような、魅力的な礼拝やメッセージなどの「呪われた血と汗と肉による奮闘」ゆえではありませんでした。彼らは一つの御霊によって一つのからだとされていたがゆえに、御霊によって、集まらずにいられなかったのです。

「なぜなら、わたしたちは皆<…>一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」(Ⅰコリント12:13)
「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。」(Ⅰコリント10:17)

今日でも、キリスト者が集まる理由はこれと同じです。一つの御霊によって一つの身体とされているから集まるのです。それなのに、そのことを無視して、外側の礼拝形式やメッセージだけに注目して、キリスト者が共に集まって礼拝していることを、「呪われた血肉の奮闘」として非難するのは、間違っているのではないでしょうか。

自分の好みに合致しない礼拝スタイルを採用している教会があるからといって、それは全て間違いだと決めつけることのできる人は誰もいません。もしも間違った教会というものがあるとすれば、それはメッセージや礼拝の外側の形式から判断されるべきではなく、キリストの頭首権が侵害されていないかどうか、御言葉が歪曲されていないかどうかという観点から見られるべきではないでしょうか。キリストを頭としないならば、それは教会ではありませんし、御言葉が歪曲されているならば、それは異端です。

5.御言葉も、キリスト者が集会を開くことをやめないよう勧めています。

「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。 」(ヘブル10:25)
このように、キリスト者が互いに励まし合うためにも、共に一同に集まることをやめないようにと、御言葉が奨励しています。集会を維持するためには、(特に教会が迫害されたような時代には)、努力や奮闘も時には必要だったでしょう。

6.肢体に分裂があるのは、ただ肉の働きによる

シュガーさんのおっしゃる通り、キリスト者は本来、互いに分裂のない一つの身体であるはずです。なのになぜ、そうおっしゃるシュガーさん自身が、ごく近しい兄弟姉妹の集会に対して、礼拝形式やメッセージを問題にして、さかんに非難を繰り返すのでしょうか。

そのような兄弟姉妹に対する非難と分裂こそ、肉の働きによってもたらされたものではないでしょうか。

「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」(ヤコブ4:1)

キリスト教界に対する非難にも、全く同様のことが言えますが、同じ主を信じている兄弟姉妹に対して、執拗に非難の言葉を向け続ける人たちは、どうか次の御言葉を心に留めて下さい。「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。 」(ガラテヤ5:15)

私たちは兄弟姉妹として互いに愛し合うように主によって命令されています。たとえ誰かに落ち度があっても、互いを否定しあう前に、自ら愛の実践をしてみせることの方がはるかに重要ではないでしょうか。「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」(箴言10:12)のです。

7.実際生活の中でキリストの真理を追い求めるとは…

「一人一人が『キリストにある』という真理を追い求め …更にそれを実際生活の中で経験すること」が重要であると、シュガーさんはおっしゃいますね。そのお考えに異存はありません。

しかし、一人ひとりが実生活においてどのくらい、キリストにある真理を追い求め、獲得しているかは、まずはその人の家庭を見れば一目瞭然となります。御言葉は言います。

「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)
「夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。」(コロサイ3:19)

「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」(Ⅰテモテ5:8)
「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。」(Ⅰテモテ3:5)

このように、キリスト者は実生活において自分の家庭を良く治めることを通して、教会への愛、そして自らの信仰を世に証するわけです。教会を治める人は、家庭をも治めていなくてはなりません。ですから、教会を論じる前に、家庭において、まず落ち度のない者であると言えるかどうかを考えるべきです。そうでなければ、その人の言い分は、どんな霊的経験を語っていようとも、大言壮語とみなされ信用を失うでしょう。そのことをどうかよくお考え下さいますように。主の憐れみを乞います。