2010年4月25日日曜日

オチョアが山に来るならば

*三つの戦いの生活*
もし引退を決めたあの有名なオチョアさんが
山小屋に来てくれることがあるならば 私には 
彼女に話したいことがあるのです:

オチョアさん、
人の日常生活にこそ 本当の価値が隠(かく)されている事を発見した
あなたは 人にとって実に大きな真理を手にしたことになります。
これは本当に見上げたことです。それにしても世界のテニス界における
あなたのミゴトな戦いには心から敬意(けいい)を表します。
本当にご苦労様でした。

さて話し変わってオチョアさん いきなりで申し訳ありませんが、
日常生活を楽しむということは 決して簡単なことではありません。
ですからあなたは今ここで これからの日常生活の中で 人の心の中に
厳然(げんぜん)として存在する三つの「本当の戦い」を戦う覚悟を
決める必要があると私は考えているのです。

あなたがもしそうしないのであればきっといずれ、あなたは何かに
裏切られることになるでしょう。そして触れたくもない現実を一時
忘れるために 一つのことに没頭(ぼっとう)せざるを得ない生活
へと舞い戻ってしまうことになりかねない と私は感じているのです。

さてこれからの話の予備知識(よびちしき)として
人は 神に創造された諸々の生き物の中でも
体、魂、霊の三つの部分からなる極めてユニークかつ貴重(きちょう)な
被造物(ひぞうぶつ)であることを覚えてください。

しかし、
もし人が 自分の「体の欲求に従った生活」をするならば 人の魂
(知性、感情、意志)と人の霊は 体の欲望に服従し どうしても罪を犯す
生活を送ることになります。その時、人は自分の理性(魂の一部)と
体の欲求の間で苦しみ、体の欲望と戦おうとするのですが結局 欲望は
理性に勝利し、その人は自分の欲望に振り回される「肉的な生活」を送る
ことになります。(現実には 特定の一つ、二つの罪がくり返し彼を
悩ますことが多いようです)

これは当然 人と神にとって実に不幸です。なぜならキリスト者は総ての
ものから自由である筈なのに その人は明らかにある罪の奴隷(どれい)
状態であるからです。

もしも
彼がクリスチャンであったとしても彼は「肉的なクリスチャン」であることは
避(さ)けられません。パウロはそのような人を強烈(きょうれつ)にズバリ
「肉の人、キリストにある幼子」と呼んでいます。(コリント3の1原文)

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