2010年4月18日日曜日

クリスチャンの自由な生活(2)

次に私達は
粘り強い戦いを覚悟し、悪霊達の不法占有を「神の法」に
基(もと)づき、宇宙の司法や警察の権威を背景に まずは私が
断固 立ち上がって 彼らに退去命令を発し、悪霊の使用を取り戻
(もど)すべく 彼らの不正使用を一つ一つくつがえして
行かなければなりません。

そうであって初めて、自分の思いは 私が自由に使用できるという
本来の姿に回復するのです。すなわちそのようにして 
私の意志が 自分の思いを 意のままに用いると言うキリスト者
本来の自由な姿に復帰(ふっき)するのです。

そのようになる前 私の思いの現実とは・・たとえて言えば
どこから見ても 私のものであるはずの山小屋に いつの間にか
暴力団員が住みこみ 不法占拠しているというヒドイ有様(ありさま)
である と言えるでしょう。すなわち私の思いが「他の何者か」
によって勝手に使用されているのです。

実はこれは 私たちの偽(いつわ)らざる現実の姿ではないでしょうか。
私達は日夜 何者かのゆえに 自分が思いたくもないことを思わせられて
苦しみ悲しんでいるのです。これは何という不法、何という悲劇でしょう。

しかしこの「思いのばん回」は実際問題 容易(ようい)な事ではない
でしょう。それには 私自身が先ずは 法(神の定め)や暴力団について
霊的な知識を得、宇宙の法、神の真理を彼らの鼻先につきつけ 現実に
彼ら一人一人に出て行ってもらう という闘争(とうそう)への
私の強い やる気、覚悟とねばり強さがどうしても必要であるようです。

エデンの園でのエバの軟弱(なんじゃく)は「他山の石」です。
なるほど自由はタダでは得られませんね。ペテロも言いました:
「悪魔に立ち向かいなさい」


この問題は奥深くきわめて実際的です。以上の記事は このような
問題がキリスト者にはあり得る と言う小さな紹介に過ぎません。

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