2010年4月13日火曜日

ある御夫妻へ(3)

その「無と死から発芽したような」小さな交わりを大切にされ 
そのささやかな交わりを愛し その交わりこそ、エクレシアの
本質であると信じ(事実その通りです。)そこで主に出会い 
その交わりを通し、この時空にキリストを表現するのです。

しかし、その前に 
私達は 更に「一人でいる時間」を大切にしなければなりません。
人に隠されたところで 日常生活の細部において 私において現に
主の死にあずかる経験が もしないとすれば、いくら二、三人で
集まったとしても 復活の主が現れて来ることは決して
あり得ないでしょう。

そこに現れるのはただ「この世」だけです。たとえ罪のようなものが
ないとしても そこにあるのはキリストの死を経ない「素のままの天然」
に他なりません。それが正に この世なのであり 神からの独立です。
その理由のために 私達が日々そして刻々キリストの十字架の死を
経過する必要は何と大きいことでしょう!

更に私達が日常一人でいる時 
主が達成された「主と私の一つ」に感謝し、そこに留まり続け、そして
サタンに対しては 彼を真理によって攻撃する という実際がもしなければ、
「二、三人」の中から「永遠のもの」が生み出て来る可能性はあり得ません。

ですから先ずは「一人対神」があるのであり、そこから初めて「二、三人」
が生み出されるのです。その時こそ その「二、三人」が現実的に神の命が
交流する原点となり また「敵との戦い」の前線となり得るのです。
(少なくも その二、三人の中の一人は「その一人の条件」を満たしている
必要があります。)
・・・
それでは 今日はここまでにします。
またお便りします。

3 件のコメント:

Salt さんのコメント...

おっしゃるとおりだと思います。

「十字架」を避けて寄りかかる誰かを求めて彷徨っても、そうした交わりそのものに裏切られて、兄弟姉妹と呼び合った人を恨んだりするのが関の山でしょう。

中傷やおせっかいで互いに傷つけ合って、キリストのからだを汚しているのは嘆かわしいことです。

生身の人間が十字架抜きにただ集まることには益などまずないと思います。

電気屋 さんのコメント...

同感ですね。
たとえピアノや英会話教室通っていても大切なのは家に帰ってからちゃんとやっているかですから、日ごろからどれくらいイエスと向き合っているかが、二人以上の交わりで、暴露されてしまいます。先生はなかなか誤魔化せません。

こんな内容を立て続けに短時間で書いているのを見ると思わずスゲーってパトモス島のヨハネみたいになりそうですが、
それをスルーしてあくまでキリストにピントを合わせて読ませていただきました。フー

Mr.Sugar さんのコメント...

総ては見えない「キリストから発する」
としか言いようがありません。

そしてもう一つ
そのキリストと霊の中で結合された
私達が 実生活の只中で
キリストの死を「追体験」することなしに
永遠のキリストの死と復活が
私達の時空に出現することも
あり得ないようです。

ギャクに
21世紀の私達が そのキリストの
死と復活のリアリティを目の当たりに
出来る という事実は真に驚異です。

そういうことがあり得るのは
私達の信仰が「キリストの信仰」である
からなのでしょう。

そしてその信仰が
キリストによって天的誕生をした
人の霊の中にあるとは!

キリストなきキリスト者の集まりよりは
この世の集まりの方が 
それなりの意義があるでしょう。