Ⅰ.今「愛する者」が救いに入れられていると言う真理の確認
1.
ロゴス(恒常的神のことば)による確認。
彼は、主の名を呼び、バプテスマをした。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)
2.
レーマ(即時的神のことば)による確認、言わば「状況証拠」。
これは御言葉や様々な状況の中で「彼は大丈夫だよ」と言う
「私の霊」に対する聖霊の静かで一貫した語りかけです。
この語りかけは数多くあり、しかも日を追ってそれは深くなり、
その静けさも増し加わっているようです。以下はその中の数例です。
①その死は人の力によってはどうしても避け得なかったこと、即ち、
彼を地上から取り去ったのは神であった、と知らされたことです。
神が「永遠に救われているキリスト者」を敢えて肉体の死に
至らせる場合はあり得ます。(Ⅰコリント4の9、Ⅰコリント11の
27~30)しかし、このたびのケースはそれらⅠコリントの例とは
更に別の意味を持つと思われます。
②死の直後の遺体の状態。
③彼の死後、間もなく家庭を訪れた平和と安らぎ。(人と神、人と人との)
④エクレシアにおける、キリスト者間の繋がりの中の呼応、共鳴において。
・その死の2、3日前、息子の為に聖徒達が祈った後に彼らを
訪れた予知的感覚において。
・兄弟姉妹の納得と賛美において。
・「この死は永遠において知られ、神によって注意深く準備された
ものであった」と言う私の文章を読んだ一姉妹の内側から、
直ちに湧き出た復活の認識と大きな賛美において。
⑤ルカ16章の貧乏人ラザロは我が息子であったことを
知らされたことにおいて。
Ⅱ.今現在、彼はどうしているか、に関する真理。
1.
その霊魂は完全な安息(眠り)の中にある。
・アブラハムの懐にいる(ルカ16の20~23)即ち
・キリストと共にパラダイスにいる。(ルカ23の43)
2.
再び体が与えられる次の時代においては、先ずはキリストの
ジャッジを受け、ある任務や「学習」に入って行くために、今は
待機の状態にあります。キリスト者が体を持たない期間は、ただ
この時期に限定されるのであり、それは例外的な時期です。
霊魂のほか、体を有して初めて人は「完全に人」であり、その時
キリスト者もその任務の遂行や学習が可能となります。
(ただパラダイスにおいて体のない霊魂が活動している例が僅かに
見られます。黙示録6の9~11。これはしかし、大艱難直前だけ
のことであり、それも「一部の勝利を得た聖徒の霊魂に限る」と
私的には考えております。これ以外にもう一つ、サムエルの例があると
言えるかも知れません。)
従って原則的に言って、パラダイスにいるキリスト者の「仕事」はただ
安息です。故に、そこは安息と待機の為の場所なのですから、神はそこを
その目的の為に明確に確保、守護している筈です。安息場や保養の
場所とはそういう所であるはずです。従ってそこにいる人の霊魂が神や
聖霊のようになって、地上に舞い戻ったり地上の人間と交信することなど、
絶対にあり得ません。これは、時にキリスト者の間でさえあり得そうな
発想ではありますが、断じて「真理」ではありません。
(しかし、人の血から湧き出てくる宗教にはことごとく
その思想があります。これにはよくよく注意しなければなりません。
尚このことには後ほど更に触れたいと思います。)
彼はある意味でそこで「眠り」についているのです。眠っている人に
対してはやはり一定の私達の態度と言うものがあるでしょう。
それはこの上ない平安と安息の場所に違いないのであり、私達が
憶測でいろいろと彼のことを心配するなど正に余計なことです。
*
聖書によると、
この場合のパラダイスは天ではなく「地下」にあるでしょう。
なぜなら「ダビデは天に上ったわけではありません」(使徒2の34)等、
それを擁護する少なくない聖句があるからです。
地下は必ずしも不快な場所ではありません。否、むしろそこは、
聖徒達の為に神によって用意されたのですから、
アブラハムの懐にふさわしい、温まりのある霊的に実に清潔で
非常に心地よい場所であるはずです。
ただ、体を有したまま地上から取り去られたエノク、エリヤは別です。
彼らは体を持っているのですから、パラダイスにはいません。
この二人は(一人はエノクでなく、モーセであると言う人もいます)
黙示録11章における、特別な彼らの任務遂行の為に、例外的な神の
取り扱いを受け、今彼らはパラダイスとは別の場所(天のどこか)で
神によって待機させられ、その活躍の時を待っているのでしょう。
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