2009年5月6日水曜日

真理は悲しみに打ち勝つ1

Ⅰ.今「愛する者」が救いに入れられていると言う真理の確認
1.
ロゴス(恒常的神のことば)による確認。
彼は、主の名を呼び、バプテスマをした。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)

2.
レーマ(即時的神のことば)による確認、言わば「状況証拠」。
これは御言葉や様々な状況の中で「彼は大丈夫だよ」と言う
「私の霊」に対する聖霊の静かで一貫した語りかけです。
この語りかけは数多くあり、しかも日を追ってそれは深くなり、
その静けさも増し加わっているようです。以下はその中の数例です。

①その死は人の力によってはどうしても避け得なかったこと、即ち、
彼を地上から取り去ったのは神であった、と知らされたことです。
神が「永遠に救われているキリスト者」を敢えて肉体の死に
至らせる場合はあり得ます。(Ⅰコリント4の9、Ⅰコリント11の
27~30)しかし、このたびのケースはそれらⅠコリントの例とは
更に別の意味を持つと思われます。

②死の直後の遺体の状態。
③彼の死後、間もなく家庭を訪れた平和と安らぎ。(人と神、人と人との)

④エクレシアにおける、キリスト者間の繋がりの中の呼応、共鳴において。
・その死の2、3日前、息子の為に聖徒達が祈った後に彼らを
訪れた予知的感覚において。
・兄弟姉妹の納得と賛美において。
・「この死は永遠において知られ、神によって注意深く準備された
ものであった」と言う私の文章を読んだ一姉妹の内側から、
直ちに湧き出た復活の認識と大きな賛美において。

⑤ルカ16章の貧乏人ラザロは我が息子であったことを
知らされたことにおいて。

Ⅱ.今現在、彼はどうしているか、に関する真理。
1.
その霊魂は完全な安息(眠り)の中にある。
・アブラハムの懐にいる(ルカ16の20~23)即ち
・キリストと共にパラダイスにいる。(ルカ23の43)

2.
再び体が与えられる次の時代においては、先ずはキリストの
ジャッジを受け、ある任務や「学習」に入って行くために、今は
待機の状態にあります。キリスト者が体を持たない期間は、ただ
この時期に限定されるのであり、それは例外的な時期です。
霊魂のほか、体を有して初めて人は「完全に人」であり、その時
キリスト者もその任務の遂行や学習が可能となります。

(ただパラダイスにおいて体のない霊魂が活動している例が僅かに
見られます。黙示録6の9~11。これはしかし、大艱難直前だけ
のことであり、それも「一部の勝利を得た聖徒の霊魂に限る」と
私的には考えております。これ以外にもう一つ、サムエルの例があると
言えるかも知れません。)

従って原則的に言って、パラダイスにいるキリスト者の「仕事」はただ
安息です。故に、そこは安息と待機の為の場所なのですから、神はそこを
その目的の為に明確に確保、守護している筈です。安息場や保養の
場所とはそういう所であるはずです。従ってそこにいる人の霊魂が神や
聖霊のようになって、地上に舞い戻ったり地上の人間と交信することなど、
絶対にあり得ません。これは、時にキリスト者の間でさえあり得そうな
発想ではありますが、断じて「真理」ではありません。

(しかし、人の血から湧き出てくる宗教にはことごとく
その思想があります。これにはよくよく注意しなければなりません。
尚このことには後ほど更に触れたいと思います。)

彼はある意味でそこで「眠り」についているのです。眠っている人に
対してはやはり一定の私達の態度と言うものがあるでしょう。
それはこの上ない平安と安息の場所に違いないのであり、私達が
憶測でいろいろと彼のことを心配するなど正に余計なことです。


聖書によると、
この場合のパラダイスは天ではなく「地下」にあるでしょう。
なぜなら「ダビデは天に上ったわけではありません」(使徒2の34)等、
それを擁護する少なくない聖句があるからです。

地下は必ずしも不快な場所ではありません。否、むしろそこは、
聖徒達の為に神によって用意されたのですから、
アブラハムの懐にふさわしい、温まりのある霊的に実に清潔で
非常に心地よい場所であるはずです。

ただ、体を有したまま地上から取り去られたエノク、エリヤは別です。
彼らは体を持っているのですから、パラダイスにはいません。
この二人は(一人はエノクでなく、モーセであると言う人もいます)
黙示録11章における、特別な彼らの任務遂行の為に、例外的な神の
取り扱いを受け、今彼らはパラダイスとは別の場所(天のどこか)で
神によって待機させられ、その活躍の時を待っているのでしょう。

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