2009年5月20日水曜日

冠婚葬祭について

当然ですが、
冠婚葬祭をどう扱うか、については、それが私とどの程度関係が
あるのか、どれ程、私の裁量に任せられているのか、が大きな
前提です。その状況がもしも私に100%委ねられているのであれば、
私は、神とそして人々の双方が出来るだけ満足出来るやり方で行いたい、
と思うでしょう。即ち、このようにすれば、人々に神の祝福が
伴うであろう、と言う理想的なやり方のイメージは確かにあるのです。

しかし実は一方で私は、冠婚葬祭などどうでもよい、と考えております。
何故なら一つに、現実問題においては、複雑雑多な多くの要素がそこに
からんで来るからです。慶弔の問題は実に生きている人間の問題です。
そして人々は、他と妥協できそうもない様々な
考え方をしっかりと持っているからです。

しかし、人生にどうしても妥協できない問題など、そんなに沢山は
ありません。「なくてならぬものは多くはない、いや、実はそれは
唯一つです。」ですから 取りあえず、それがその状況の中で
「無理なく自然に」行われるのであれば、それでよし、とするべきです。
慶弔のことは絶対こうでなければならない、等といくら息巻いて見た所で、
それは、現場に要らざる混乱を来たらすのみで、
大した意味も価値もない、と私は思っております。

仮に、今回ある事情の為、
我が息子の葬事が私の手から100%離れて「その道の専門家や宗教家」
に任せざるを得なかったとしましょう。その場合、私はどう思うの
でしょうか。多分、随分お金がかかっているらしい、そのケバケバした
葬儀をかたわらで見て私は、確かにある不快感は持つでしょう。しかし
「私の霊」は少しも動揺することはない筈です。なぜなら、その葬儀に
よって、肝心の息子のパラダイスにおける現実が1%の影響さえ
受けることは絶対にあり得ない、ことを私は確かに知っているからです。

肉体を離れた故人は完全に神の裁量の領域へと移されます。そこに
人間が僅かでも介入する余地は全くありません。この世とあの世の間
には大きな淵が横たわっているのであり、そこには神の主権のみが
存在するのです。神は少しも揺らぐことはあり得ないし、故人にも
何らの変化もありません。それらは全く不動です。(*1)

しかしその儀式によって、今生きている人々は影響を受けるでしょう。
そうです、葬儀とは「死人の為」を装った「今生きている人のためのもの」
です。繰り返しますが、儀式によって、既に神の中に移された故人が
影響を受けること等決してありえません。

また結婚の場合であれば、大切なのは、そのお二人がどうであるかです。
従って儀式などはどうでもよい事であり、自分達で自由に 
「祝福の集まり」でも行えばよいのではないでしょうか。

(*1)
もしも仮に故人が、生きている人の
①生活状態の立派さや、また
②故人のために出費するお金の額、
③専門家や俗人の念力や祈りのパワー等によって
少しでも影響されるのであれば、それこそ大変です。

生きている人はいろいろですし、出す金額も変われば、
祈りのテーマも様々な上に、その念力パワーの出力も
必ず変化するでしょう。

もしそうなれば「黄泉の国」は実に困ったことになります。
そこの住人達は常に右往左往、上がったり下がったりで、
毎日が「大いそがし」に違いないからです。

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

私がカナダにいるとき、葬式は故人のためにするのではなく、残された人々の慰めと励ましのためにするのだ、と聞いて、いい意味でショックを受けたことがあります。西洋人はどうとったかわかりませんが、少なくとも仏教文化の影響を受けている日本で育った私には、パラダイムシフト(世界観を変えられる)をせまられる出来事でした。

Mr.Sugar さんのコメント...

そうですね。
私達は知らずに、真理とはことなる
実行を数多く行っていることでしょう。