2009年5月31日日曜日

兄弟は主に自分の体を献げた

*柄沢登兄弟の家で(4)*

キリスト者の「人生」は
素晴らしいものであり、その長さは永遠です。その中でも、
今のこの時代、私達が堕落の痕跡が深いこの肉体の中に留まら
なければならない憂鬱な?短い時間帯は極めて大きな価値を持ち
得ます。それは私達が「時間」の中で過ごす時代の尊い前半です。

さて、
残された時間は更に短いであろうと思われた登兄弟と、そしてそれを
見つめる姉妹達に迫った聖霊の働きは正にその一点「時間と朽ち行く
肉体の意識」にあったのではないかと思われます。その結果、何が
この家に起こったのでしょう。それは先ず:

Ⅰ.兄弟が主に自分の体を献げたことでした。
私達の神は不思議な神です。何故なら彼は全能者であられるのに、
私達の自由意志をとても尊重されるからです。ある意味、神は私達に
自分の人生をどう生きるのか、その裁量を殆ど任せられるのです。

しかし、ここに一つの例外があります。
それはキリスト者が敢えて、自分の人生の総ての時間、体、そして
それらに付随する状況一切を神に献げますと、申し出た場合です。
その場合に限り、神は大いに私の人生に「干渉の手を伸ばされる」
と言ってもよいでしょう。またもしそうでなければ、
神は不実であることになってしまうのではないでしょうか。

献身とは「神の愛に促され、神の権利を人が真に認める時、
神に仕えるために神に一切を委ねること」です。
その場合の神の権利とは、御子の尊い御血という代金をもって、
神は私を既に買い取っておられる、と言う神の絶対的な権利です。

当然それは正しく、そこにのみ義が存在します。従って
その様な神に対して、キリスト者が自分の総てを献げない
と言うのであれば、それは明らかに正しくありません。

所が「今の時代においては」神は御自分のその権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。

しかしながら、
人がその神の愛と正しさに自ら気づき、  
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はあなたを、真に御自分の者として取り扱い始められるのです。

この際、とても素晴らしいのは、
彼は自分に与えられた自由意志を正しく用い、
冷静に自分の意志で神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最重要なことである、とさえ言い得るからです。
(それこそが信仰です。)

何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
登兄弟は正にそれをされたと言うのです!即ち
彼はその環境やひどい感覚をひとまずかたわらに置き、
その神の真理を見つめ、次に
「私の体を主に献げます」と彼の口の言葉を用いる
ことによって、即ち信仰によって、
その真理そのもの(それは主御自身)を
彼自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。)

真にそれは不思議な聖霊の働きでありました。
(その詳細には非常に興味深いものがあります。)
それ以後の、柄沢家における兄弟と、そして姉妹達に対する神の
取り扱いは、その神の真実に基づくものであった、と言えるでしょう。

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