2009年5月21日木曜日

息子の葬事(3)

今回の私の息子の場合、
彼の葬事の為の備えは、既にその死の数日前には、
神によって用意されていたように私には思われるのです。

先ずは
上からの促しによって、息子のために祈って下さるようにと言う
父親の求めに応じ、エクレシアの中に、広く、緊急で切実な
祈りが突然として起こされたのです。

ですから、彼の葬事は、そのエクレシアにおける祈りから
既に始まっていたのではないでしょうか。
間もなく(二日後or三日目)彼は、人の全く予期し得ない方法で、
アブラハムの懐に迎えられ、
そして次に、葬事は、それを聞いた「エクレシアの驚き」と、
次第に明らかになった様々な事実の証しを通し、大きな深い
神への感謝と賛美となって、進行して行ったのです。
今まだ続いている「余韻のような やさしい慰めの調べ」は
いつその終わりを迎えるのでしょうか。

以上のことこそ、
「息子のための葬事の実質と価値」であったのであり、
「家族4人だけによる、祈り、語り合い」と言う「いわゆる葬儀」は、
そのささやかな「一部分」に過ぎなかったのです。


「本当に大切で価値あること」は、
人間生活の中の、喜びと悲しみが織り成す普通の出来事の中でこそ、
粛々として行われ、現わされなければならないはずです。

いにしえの日、
その人間生活の、むしろ苦しみと悲しみのただ中に敢えて介入され、
その中でこそ、御自身の真の姿を現わそうとされたのが
「あの福音書のイエス」だったのではないでしょうか。
今日、見えざるそのイエスの出現そのものこそ、
「葬事」における「真の価値」に違いない、
と私は考えております。

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