2008年1月16日水曜日

K さんへ(2)

私に与えられた知識からお話する前に私は以下のことを
K さんにお伝えしないわけには行かないと思います。それは

*真の霊的知識はどこから来るのだろうか*

と言う問題です。
聖書から何か霊的なことを知りたいと思う時 私達には 
当然の如く「誰かから教えてもらおう」や「いい解説書を
読まないと」とごく自然に反応するものがあります。
現代の世に生きるキリスト者達にとってこれは相当に
根深い状況だと言ってよいでしょう。

ところが イエスは言われました、
「聖霊は、あなた方に総てのことを教え、また私があなた方に話した
総てのことを思い起こさせて下さいます」と。(ヨハネ14の26)
ここに「総てのこと」とあります。信じられるでしょうか、イエスは 
聖霊は大小様々の総ての事を教えることが出来ると言われたのです。
そしてまた「その方、即ち真理(リアリティ)の御霊が来ると
あなた方を総ての真理(リアリティ)に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と断言されたのです。
彼は続けます「私はあなた方に言います。求めなさい。
そうすれば与えられます。・・天の父が、求める人たちに、どうして
聖霊を下さらないことがありましょう」。(ルカ11の9、13)
だからパウロは祈りました「どうか・・父が 神を知る為の知恵と啓示
の御霊を、あなた方に与えて下さいますように。」(エペソ1の17)

キリスト者が何か霊的なことを知りたいと思うとき、先ず人に行く
べきではなく直接、神の所に行って懇願するべきです。これが基本です。
そうした後で或いは神はあなたを ある人の所に導かれるかもしれません。
それはそれでよいのです。しかし大前提は「第一にあなた自身で直接神へ」
なのです。この優先順序を間違えるならばそれは 長い時間の中では
決定的な損失となって現れてしまうことになるでしょう。

もしも神の真理を「人から教えてもらう」や「勉強する」が常に前提になる
ならば そこから得た何らかの「霊的な」知識は単なる
「キリスト教的知識」の収集に過ぎないことでしょう。それは
霊的な真の知識とはなりません。むしろそれは多くの場合 
その人を誇らせ、他人を見下げる材料になってしまうことが多いのです。

私にもかつてある人の教えを絶対視し、それらの教えを収集し記憶する
ことに励んだ長い時期がありました。そして当時 それはとても
素晴らしいことであると信じていました。なぜならその教えは非常に
「正しいもの」であったからです。しかし大切なのは「善悪を知る知識」
即ち正しいか否か、などではないのです。(先ず命と総てなるキリストを
求める。そうする時に「当然の結果の一つ」として正しさも付いて来るの
です。しかしその期に及んでさえ実は「正しさ」など
その人の眼中にはないのです。)

その後 不思議なことに主は何と 私をこの山中に一人入って 
直接主に求めるように導かれました。その時から私に驚くべき日々が
始まったのです。直接主のところに行き 結果与えられた知識は
何と言えばよいのだろうか、それは先ずは生きており、そのようにして
示された大小の知識は互いに結合しあい一つの生き物(人)のようになり
そしてそれが私に直接働きかけて来るようになったのです。
(枯れた骨骨でさえ生き出した!)その頃に至って初めて私は 確かに
「真理(実際)とはイエスキリスト御自身である」と知るに至ったのです。
それは単なる文字の知識ではなく私にとっては正にリアリティであった
のです。以前の「正しい」聖書的知識を得るために費やされた長い年月は
一体何だったのでしょうか。(多分命のない枯れた骨骨の収集に
過ぎなかったのでしょう。)

真に霊的なものは現在 絶対的に「キリストの復活の中」にしか存在せず、
そしてそれは全く天に属するものです。それと「この地上の魂的な知識」
の間には言わばどんな橋も掛けられ得ない大きな淵が横たわっていると
言えるのです。この淵を人が生来の頭脳の努力で渉ること等不可能です。
その両者には絶対的な性質上の天と地の相違があるからです。
「創造されることのない永遠に属する神聖な領域のもの」を被造物に
過ぎない人の小さな頭脳で真に理解することは元々出来ることでは
ありません。それは例えば猫にとって人の奥深いことを知ることは 仮に
相当の努力家の猫がいたとしても 元々無理であるのと同様でしょう。

天と地を結び私達に何かを伝達すること それが可能なのは神ご自身
以外にはあり得ないのです。それは一方的な 私に対する神の働きかけを
もってして初めて可能となるのです。従って私達がするべき第一のことは
先ずは神に向かい神の永遠の真理に関して我が目を開いて下さるようにと
「懇願する」ことである筈です。
これはごく当然のことではないでしょうか。

「なぜなら御霊のことは御霊によってわきまえるものだからなのです。」
(1コリント2の14)

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私は何も知りませんが,私のうちにおられる方は全知です。

私は何も出来ませんが,私のうちにおられる方は全能です。

私はやがて死にますが,私のうちにおられる方はよみがえりです。

私のアイデンティティーのすべては,この御方との分かち難い絆の中にあります。

そして,この御方によってひとつとされた兄弟姉妹たちとの交わりの中にあります。

読ませていただきながら,そんな告白が,自然に心の奥底から出てきました。

SUGARさんの証は,誰かを説得するために,何かを納得させるために,人が作りあげた神学ではなく,真実ないのちの体験であると受け止めています。

このような証の集積が,真理の土台,また柱になっていくのだと思います。

そして,それこそ,まさに現在のキリスト教会の中に最も欠落している必要不可欠なものです。

奈良でお会いできるのを楽しみにしています。

匿名 さんのコメント...

現代はなにしろマウスのクリック一発ですべてOK。この短絡さが諸々の事件の根っこであると感じています。で、「教えて」アッチチュードが蔓延。

ちなみ、Sugarさん、奈良行きの予定がおありですか?私も3月を考えているのですが。

Mr.Sugar さんのコメント...

両兄弟 有難うございます。

さて奈良行きですが 私はソルトさんに
「私は気楽な身分なので、忙しいソルト
さんの都合のよい時に 奈良に行かせて
下さい、内容は総てお任せします」と
お願いしてあるのです。

どうなりますことやら。
いずれにしろ、楽しみなことです。

匿名 さんのコメント...

これは楽しみですね。私も3月ですが、Saltさんのスケジュールに合わせようかと。一緒にどうでしょうか?

Mr.Sugar さんのコメント...

私の場合、ソルトさん次第ということに

なっております。

私はOKですよ・・