2008年1月4日金曜日

「キリストの中の私」へ(6)

*真の自由はどこに*
私達はよく「人は自由だ」といいますが、実の所 人はあんまり
自由ではないのです。逆に人は相当に不自由な者であり 
多くの制限の中に閉じ込められているのです。

先ず人は生きる為に当然沢山の「ねばならない」や義務、種々雑多な営み
の中に閉じ込められています。しかしこれは本来 私達のあるべき姿
なのでしょうか。本来の人間と言うのは その日常生活の中でさえ
本当の自由と解放 そして完全ささえ
味わっているものなのではないでしょうか。
また私達は 弱さ、病、老い、怒り、悲しみ、苦痛、圧迫、人間関係、
憎しみ、争い、戦いの束縛の中にあってひどい不自由を強いられています。
これは今更 言うまでも無いことでしょう。

そして私達は自分の気質、好み、願望や愛情の中に、そしてまた長年
自分がつちかって来た大切な自分の人生観のようなものにさえ 
縛られてしまうことがあり得るのです。またあれを手にいれさえすれば
きっと自由になれるのでは という「希望のようなもの」にこそ
強力な「捕らえ」がしばしば潜んでいるのかも知れません。
即ち人は「自分」と言うものの中でさえ そんなに自由ではないのです。

更に話を進めさせて下さい。(こういうことは今まで あまりお聞きに
なったことがないかも知れないのですが・・)
仮に以上述べた項目の総てから全く自由な人がいるとしても
(そんなことは絶対に無いのですが)自分の「物質としての肉体」や
「時間や空間」の制限を受けない人はいないのです。これ当たり前?
でもね 人は何故か時々 大空を悠々と自由に舞う
鳥を見てつくづくと羨ましく思います。
いかがでしょう、人が時折つく奥深いため息はもしかして
実はまだ知らない、しかし本来人が持っているべき
「奥深い真の自由」を求めてのもの なのではないでしょうか。

ここに一つの法則のようなものがあります。それは 時空とそして
時空の中の一切のものには ある働きが作用しており それは絶えず 
人を束縛の中に閉じ込めようとしている と言うものです。
今日何もかもが嫌になったと 自らの物質的な肉体に終止符を打ち 
無意識の内に 時空(この世界)の外へ逃れようとする人が多くいます。
ある意味で彼らは拘束する煩雑な事柄と時空の束縛から逃れられた、
のかも知れません。
しかし彼の選択は彼に真の自由を与えたでしょうか。当然否です。
決して私達はその様には感じないのです。むしろそこに
とても自然に底知れない悲惨と悲しみとを覚えます。
なぜでしょう。それはそのようにして 彼は最大の束縛と制限の手の中に
落ちてしまったからです。その最大の束縛と制限とは何でしょうか。
それが「霊的な死」です。

死こそ人を極みにまで束縛するものです。死こそ人を最大限に
閉じ込めるのです。先に述べた様々な拘束するものの総てに 
死の印があります。それらの一切は常に死の足音を響かせています。
私達は敏感にその音を察知するべきです。
死の力は 時空や光をさえ飲み込んでしまうと言うブラックホールのように
人を恐ろしい究極的な制限の中に閉じ込めてしまうのです。

死の本質の一つは確かに制限、閉じ込めです。
それは 時空とその中の万物には
「強力な死の力を持つある存在」が働いているからです。


しかしながら ここに確かな希望があります。
それは人の思いの中では到底信じ難いことなのですが・・
それは 私達の神は 人が「いかなる」制限の中にも
閉じ込められることを絶対によしとされない と言う事実です。
神に感謝します。神は人に本当に「真の自由」を与えたいのです。
そうです、神は諸々の束縛、拘束、また何と物質や時間・空間から
そして総ての拘束の根源として働く死の束縛からさえ
完全に私達を自由にしたいのです。
そのためにこそ 神は御子を十字架に行かせたのです。

そして私達の為の「実際的究極的な自由」は
ただ十字架を経られた 御子の「復活」の中にあるのです。
復活こそ時空とその中の物質的な一切のもの、そしてそこをより所として
死の力の中で働く 暗黒の中にある一大勢力でさえ 遥かに超越する所の
「永遠と言う性質を持つ非受造の中の領域」なのです。そしてその領域とは
何と天地にある「一人の人」でもあるのです。

「私は復活であり命である。」(ヨハネ11の25)

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