2008年1月2日水曜日

「キリストの中の私」へ(5)

神の御子は 永遠から永遠に至るまで存在するお方です。
しかしある時点でキリストとしての彼は アダムの肉の様で
時空の中に入って来られました。そして彼は彼の中の
「旧創造を包含する最後のアダムの物質的肉の死」において
古い時空とその中の万物を神による死の審判のもとに服させたのです。

もとより旧創造はアダムの罪の故に「永遠の命なる神」から切り離され
死の状態にあったのですが、最後のアダムの死において更に 
法的に公的に正式に「神にとって全く不要なもの、棄却されるもの」と
される死の印が付けられたのです。ここに「古い時空とその中の
総てのものは終わった」とする神の大宣言があったのです。
これは神の御子が命を賭して達成されたことであり、
この事実に異議を唱え それを覆しうる者はありません。
万物は御子の中で創造された(コロサイ1の16)が故に
イエスの死の中で万物は終わったのです。象徴的に言うとこれは 
「水と言う死」による審判とある執行でした。ノアの洪水や
エジプトの軍勢を覆った海、水のバプテスマの意味等がここにあります。

しかしながら死(ある終結)とは消滅を意味するものではありません。
それは命からの隔絶なのです。しかし将来、更に終局的究極的
正に絶望的な隔絶が待っています。それこそが第二の死です。
即ちそれは焼却であり永遠の火の池です。(しかしそれとて
消滅ではないのです。)その時には第一の死でさえその機能が終わり 
黄泉と共に 永遠の火の中に投げ込まれるのです。
それがイエスが言われた火のバプテスマでもあります。
(遂には海も無くなります)

さて今「第一の死の印」を持つ時空は まだここにあります。
キリスト者とはこの時空の中に ある明確な目的をもって神によって
意図的に「留まらせられている」存在です。基本的にまた本質的に
私たちは キリストの復活にあずかり永遠の中にある天的な存在です。
キリスト者とは元より「地に住む者」ではないのです。
しかしながらそれと同時に私達はこの時空の中 旧創造の中に敢えて
暫くの間留め置かれなければならない極めて稀有な者達なのです。
このような存在はキリスト者を他にしてはどこにも見ることが
出来ないのです。この理由の故に 他の目に見えない極めて高度な
被造物達は正に驚異の眼差しで日夜私達を見つめていることでしょう。

さて私達がこの時空の中に今しばし留まらなければならない理由とは
「神の敵の苦しみの増大と恥辱の増大」の為なのであり、
そのことに含まれる 神に創造された者達への命の福音の宣べ伝え
のためです。これ以外に私たちがこの地上にいる意味はあり得ません。

それではその目的はどのようにして実現されるのでしょうか。
それは私たちが キリストによって達成されたあのB面の原型、
キリスト者が歩むべき行程の為にキリストによって既に完成されている
「復活のキリストと言うあの原型」に信仰によって自分を「はめ込み」
キリストの各面を この時空の中に再現することによって
初めて可能となるのです。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ますます鋭い記事を楽しんでおります。年末は山小屋に行けず残念でしたが、3月あたりには是非と思っております。

Mr.Sugar さんのコメント...

今年もよろしく。

3月にはぜひぜひ。

やっぱり

あんな集まり方が一番よいようです。

匿名 さんのコメント...

はい、3月、よろしく。

私もこの歩み方を「すでに終わっている未来の現在への霊的逆算」と表現しております。神の視点ですね。

しかし今後、キリスト教界はますます目先に振り回されるでしょうね。キリスト信仰とキリスト教の違いがますますクリアになってきてしまいました。

Mr.Sugar さんのコメント...

霊的逆算 なるほど。

このことがますますクリアに
当たり前のことになって行く必要が
ありますね。
普通のおじさん、おばさん達にとって。

3月、楽しみです。