2007年12月31日月曜日

「キリストの中の私」へ(4)

クリスチャン生活とは 
多くの苦難を経験することによって私の魂が長い時間を経て
造り変えられその結果 私の生活においてより多くキリストを表現し 
より神の御旨を実行することが出来るようになる、 
と言う認識は あるキリスト者達にとっては一般的なものと言えましょう。
これを今A面と呼ぶことにします。当然このA面に間違いはありません。

しかしそれはしばしばB面との深い関わりの中で
語られるべきものなのです。
私の個人的な考えによると むしろB面を優先させる実行の中で 
初めてA面は「無理なく」現れて来るものであると思われます。

それではB面とは何でしょうか。それは・・・
クリスチャン生活とはキリストによって既に完成した
「十字架、復活、昇天、御座と言うキリストの生活、人生、運命」を
私において再現して行くものである と言うことです。
キリスト者の通るべき全行程は「キリストと言う範囲」の中にしか
存在しないのです。私たちの一切は総てキリストの中にあります。
私たちキリスト者の運命の原型は キリストの御業において 
もう成就完成されているのです。
私たちは今のこの時空の時代(恵みの時代と千年の時代)において 
そして或いは永遠の時代においても(?)
キリストが達成された原型を、その原型の中に自分を置くことによって
私達がその再現となるのです。
それは栄光から栄光へと至る道でしょう。
それにしても キリスト者に定められた運命とは
何と安全で また言語を絶する驚くべきものなのでしょうか。

それは決して私達がキリストにならって 
自分で自分の人生を切り開いて行かなければならない、と言う様な
不確かなものではないのです。

私達は既にキリストの死において彼と一つとされました。
だからそれ以後の私たちの運命も 総てキリストとの一つの中にあります。
私たちの永遠、運命は天おいてもう既に定まっているのです!

ですから私達は今この時代においても 私達に残された時間の中で
その真理を信じ その確固とした事実にしっかりと立ち
今私達からキリストの復活、昇天、御座を表現して行くべきです。
そこから与えられる享受の程度はたとえ「前味」に過ぎないとしても 
それは将来と完全に同質の味なのです。

ここでのキーはひとえに信仰です。
信仰だけが その永遠におけるキリストの達成を 
今の私の生活と言うこの時空の中にもたらしてくれるのです。
このB面には 従って即時的な一面があります。
唯信仰によって 天にある永遠性の実際が直ちにあなたの中に 
そしてあなたの周辺に今日にも現れ出る可能性があるのです。


「一粒の麦が・・死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12の24)
*豊かな実は一粒の麦・原型と性質において全く同じであり、
数多くの再現です。
「あなた方は既に死んだものであり、あなた方の「命」はキリストと共に
神の内に隠されている。」(コロサイ3の3)
*この「命」から生活、人生、運命が再現されて来るのです。

0 件のコメント: