2008年1月11日金曜日

十字架と復活に見る神の知恵と力

死とは命の対極です。
そして死の力を所有する者はサタンであり、
命の究極的な姿は神です。

それでは復活とは何でしょうか。それは
「人となった命」が敢えて死の中に入り込んで死を打ち破り
死を破壊し尽くして 人が永遠・神の領域に入ること またその状態です。
死の力とは既に述べたように「人を総てのものを一つ所に閉じ込め制限して
命である神から隔絶しようとする力」です。
この力は絶えず全人類に及んでいます。だから人には自由がないのです。

それでは
命からの隔絶、閉じ込め、不自由の究極はどこにあるのでしょう。
それは他でもない、あのイエス・最後のアダムの十字架
(一つ所・凝縮された一点)にこそです。十字架ほど不自由な場所は
ないのです。十字架は神の命から隔絶され閉じ込められる死の極点です。
ですからイエスを十字架に釘付けた事は「サタンの大勝利」でした。

そして更にそれ以前においても サタンは大成功者だったのです。
即ちサタンは最初のアダムに対し「彼の本質的な能力・ウソ」を用いて
「神から独立し自給自足する魂」を与えました。その意味する所は 
サタンはその虚偽を巧みに行使する事によって まんまと全人類を
神の命から切り離すことに成功した と言うことです。
これによって人類に死が発生したのです。

そして前述したように
更にサタンは全力を尽くし 最後のアダム・イエスをも神の命から
隔絶しようとし死の極致・十字架に閉じ込めることに成功したのです。
それはあたかも神の敵の完全な勝利でした。
これで死と言うものが全人類を完全に覆い尽くす と言う結果に
至ったのです。(あたかもノアの時の大洪水のように。)


しかし神を賛美します。
ここに神の計りがたい予知と知恵そして力があるのです。
当然 神は神ですからサタンの限界を十分にご存知でした。
それではサタンの限界とは何でしょうか。それは
「サタンはその死の力の行使を決して停止し得ない、彼はその路線を
ひたすら突き進むしかない と言うその本能」なのです。
悪には 悪と知りながらもどうしても 破滅に至るまで
突進せざるを得ない性質があります。彼には
悔い改めと言うことは絶対にあり得ないのです。
これによって 神から来られた人類を包含する最後のアダムが
サタンの本能に乗じてサタンの総ての力の真髄・死の中に
入り込むことに成功したのです!

この結果は言わずもがなでしょう。
イエスにおける究極的な「閉じ込められ、圧縮され」が 究極的な
「命の無限の爆発と放散」を誘引したのです。究極的な不自由と圧迫が
完全な自由、総てに対する無限、即ち人の復活を招致したのです。
「この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。」
(使徒2の24)
どうして「非受造の無限の命」が 単に被造物に過ぎないサタンの力に
4日間も閉じ込められることなどあり得ましょう。
当然 イエスの霊の中にあった命は神の究極的な命、無限の命でした。
それが「永遠の命」と呼ばれているものです。サタン自身が「その
死の力が 永遠の命によって完全に破壊尽くされる、と言う絶好の機会」を
神に与えてしまったのです。
(そのようにして復活の永遠の命が私達に届いた!)

そこにこそ 人知では想像することすら出来ない
神の計りがたい知恵と力があったのです。
神は褒むべきかな!


・イエスは、ご自分の前に置かれた喜びの故に、辱めをものともせずに
十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12の2)
・女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んで
しまうと、一人の人が世に生まれた喜びの為に、最早その激しい苦痛を
忘れてしまいます。(ヨハネ16の21)

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いつも確信に満ちた力強い解き明かしに感謝します。

サタンは偽りの王様。まさにこの世の王です。

私ははじめてサタンの話を聞いたき,自分はサタンの陣営にいると明確にわかりました。キリスト教的ヒューマニズムには,蕁麻疹しか出ませんでしたが,サタンの話は寓話ではなく,リアルに理解できました。

一刻も早く,ここから解放されないと大変なことになる。アートや文学,哲学,心理学の大半はサタンの領域にあります。

私はヤクザが足を洗う感じで,迷うことなくキリストにつきました。もし,十字架と復活がなかったら,私はこうして生きてはいられません。

Mr.Sugar さんのコメント...

今 ソルト兄弟の真実な証に感動を

覚えています。

私ももう一度 キリストの

人に対する愛故の決断、ただ十字架へと

進んで行かれた真実、神への信仰、忠実さ

を覚えます。

ただ彼を賛美し、その前に額ずくだけです。

匿名 さんのコメント...

う~ん、今回の記事、迫力があります。

匿名 さんのコメント...

よく読ませてもらっています。
二度目の投稿です。

神の目から見て事実はそこにあるとしても あなたの経験においては
相変わらずキリストはあなたからかけ離れた存在でしかないであろう。
信仰こそ キリストの復活の中に存在する天的な真理を
あなたの時空に至らせ「実現させ」経験させる通路なのである。

私の時空にも、実現させ経験させてもらいたいです。

Mr.Sugar さんのコメント...

コメント感謝します。

ある特定の御ことば、また真理が

「気になる」というのは 

とても大切な主からの

働きかけであると思います。それを

手がかりに今度は私の方から主に

働きかける。

その様な主との真摯なやり取り、主との

「付き合い」が 総ての基本である

ように思われます。

匿名 さんのコメント...

初めまして。

最近、初めてコチラにお邪魔した時から
こちらのブログを開くたびに
私の魂が、キョトンとするのです。

「山暮らしのキリスト」

Mr.Sugar さんは、現実にイエス・キリストと一緒に生活なさっている
もしくは、内在している
ということなのでしょうか?

主は、信仰を持てば誰にでも御宿りになる的な大儀ではなく
ご自身をイエス・キリストと名乗られる理由を知りたいと、本当に純粋な気持ちで思います。

また、エントリーの最後になぜ、ヨハネの
「女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んで
しまうと、一人の人が世に生まれた喜びの為に、最早その激しい苦痛を
忘れてしまいます。(ヨハネ16の21)」

をお書き添えになったのでしょうか。

ここへお邪魔すると
なぜこんなに魂がキョトンとするのか。

通り過ぎようと、通り過ぎたいと思いました。
けれど「真っ直ぐに、尋ねてごらん」と言われました。

実はこのエントリーを数日前に目にしたとき
私自身の魂が、地雷を踏んだような衝撃があり
私の信じる方に守られながら回復を待って
コメントさせて頂いています。

突然に不躾な質問で
ご気分を害されるかとは思いますが
もし、お気持ちがお許し頂け
お返事が頂けましたら、幸いです。

宜しくお願いいたします。
失礼致しました。
(匿名での投稿も、合わせて、お許しください。)