被造物は真の救いが適用される前に無にならなければなりません。
従って、真の偉大さは、私達がどれだけ多くを得たかにはよらず、
私達がどれだけ多く失ったか によります。
真の命は人の自己が失われる中にのみ見られます。もし被造物の天然の
性質、命、行動が全く捨てられていないなら、そこには神の命が表される
場所はないでしょう。私達の自己はしばしば神の命の敵です。もし私達が
自分のための意図や経験を失わないならば、私達の霊的な命は
大きな損失を被るでしょう。
☆
「被造物は真の救いが適用される前に無にならなければなりません」:
このことの前提は永遠の中に存在するキリストの十字架(死の力)です。
それを「私の」事実として認めること、即ち キリストとの一つの中で
私の旧創造は既に死んでいるという神のことばに対する信仰が必要です。
次にその事実に基づき 私の具体的な「捨て去る」という意志と行為が
要求されます。そうする時に初めて 永遠の「死の力」と「復活の命」が
時空の中にいる私において その効力が発揮されるのです。
親鳥の飛翔への促しに「応じる」ヒナ鳥の「信仰と意志と行為」はやはり
必要です。それは それまで ヒナ鳥にとって 総ての拠り所であった
「古き巣穴」を勇気をもって捨て去ることであるとも言えるのです。
*
「真の命」「神の命」「霊的な命」:
命という言葉の響きはあまりに美しいので、それは人の注意の上空を通り
過ぎるばかりです。即ちそれは キリスト者が命という言葉を聞く時
ウットリとしてしまい その真の意味を自分に適用して考えることを忘れる
ということです。このような例は結構 多いのではないでしょうか。さて、
「神の命」とは「神が与えられる私達のための生きる力」ということでしょう。
また「真の命」とは「本当の生きる力」であり、「霊的な命」の意味は
「物質界や人の世界にはない 上からいただく実際的な生きる力」
とでも言うべきものでしょう。
それでは今日 私の命、生きる力、生きるエネルギーの源はどこにある
のでしょうか。今現在 私の生きる力の源泉は一体なんでしょう。
果たして私は「キリストのみが真に私の命である」と言えるでしょうか。
PS
「キリスト、私の命」の意味は
「キリストは私の大切な人」だけではありません。
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