感覚の生活(7)
そのような時、信者は「これは自分が罪を犯し、神に捨てられたからでは
ないだろうか」と考えます。しかし こうも思います、「もしも罪を犯した
のでないのなら、何故 主は共にいて下さらないのだろうか?」
彼は最近の自分の行いを調べ「やはり私は主に罪を犯したのかも知れない」
と思います。その結果、彼はあることを告白し、以前のように主が自分に
戻って来てくれること、またあの素晴らしい幸福感を回復して下さることを
願うのです。
ところが、自分を調べて見ても、何も特別な罪を見出すことが出来ません。
総ては大体 以前と同じです。「もし私の今の状況が主に捨てられるもの
であるなら、何故、過去の状態では捨てられなかったのか?」「罪を犯して
いないのなら、今なぜ 主は自分から離れてしまわれたのだろうか?」
彼はいろいろと思いを巡らします。しかしながら どうしても
彼が納得の出来る答えは見出すことが出来ません。
彼はそのような紆余曲折の中「やっぱり私は 主を何らかの方法で怒らせた
ので 捨てられたのだろう」という結論に傾きます。そしてサタンはこの時と
ばかりに 彼を責め立て「私が罪を犯したからだ」と信じ込ませようと
します。そのようにして、遂に彼は 主の前に赦しを求め「失ったもの」を
回復して下さるように願うのです。
しかし実のところ そのような祈りには全く効果はありません。
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