2009年8月15日土曜日

罪を犯したからだろうか?

感覚の生活(7)

そのような時、信者は「これは自分が罪を犯し、神に捨てられたからでは
ないだろうか」と考えます。しかし こうも思います、「もしも罪を犯した
のでないのなら、何故 主は共にいて下さらないのだろうか?」

彼は最近の自分の行いを調べ「やはり私は主に罪を犯したのかも知れない」
と思います。その結果、彼はあることを告白し、以前のように主が自分に
戻って来てくれること、またあの素晴らしい幸福感を回復して下さることを
願うのです。

ところが、自分を調べて見ても、何も特別な罪を見出すことが出来ません。
総ては大体 以前と同じです。「もし私の今の状況が主に捨てられるもの
であるなら、何故、過去の状態では捨てられなかったのか?」「罪を犯して
いないのなら、今なぜ 主は自分から離れてしまわれたのだろうか?」 
彼はいろいろと思いを巡らします。しかしながら どうしても 
彼が納得の出来る答えは見出すことが出来ません。

彼はそのような紆余曲折の中「やっぱり私は 主を何らかの方法で怒らせた
ので 捨てられたのだろう」という結論に傾きます。そしてサタンはこの時と
ばかりに 彼を責め立て「私が罪を犯したからだ」と信じ込ませようと
します。そのようにして、遂に彼は 主の前に赦しを求め「失ったもの」を
回復して下さるように願うのです。

しかし実のところ そのような祈りには全く効果はありません。

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