2009年8月1日土曜日

幾種類かの愛がある

霊的な愛と魂的な愛との相違は何でしょうか。外観からその
相違を表現するのは非常に困難です。しかしキリスト者は自分の
愛の源がどこにあるのかを識別しなければなりません。

魂は私達の自己です。ですから、魂に属する総てのものは、
自己から分離されることはありません。従って主に対するもの
であったとしても魂からの愛は、自己から出た愛です。自己の
幸いな感情を得るために神を愛することも魂的に神を愛することです。

一方 もしも神を愛する愛が霊的であるならば、その中に自己が混入
することはありません。それは純粋に「神のために」また「神を愛する
ために」神を愛することです。そうではなく、全部であれ一部であれ、
自己の幸いのために、或いは別の理由のために神を愛することは
総て魂から出たものです。

☆    ☆

男女における愛情関係において「恋を恋する」と言う言葉が
あります。この意味は、その人たちは「本当に」相手を愛して
いるのではなく、実は彼らが愛し合っていると思っている彼らの
関係において発生する恋愛感覚や雰囲気、ムードに酔いしれている
と言う意味でしょう。だから、ある一定期間が過ぎ、雰囲気が
過ぎ去るとたちまち彼らの関係は消滅する、と説明されています。

しかし、別の人は言うでしょう「いやそこにさえ、彼らには
恋愛感覚を愛する以外に、相手に対するある種の愛がありますよ」と。
そうです。そこにもやはり「人の何かしらの愛」は存在するのでしょう。
それではその「彼らの愛」の源はどこにあるでしょうか。それは
明らかに人の魂であり、更に「魂よりももっと外側の要素」です。
ですからここに既に三種類の「愛のかたち」があることが分かります。
それは感覚や雰囲気を愛する愛、相手の魂を自分の魂によって愛する愛、
そして魂よりも更に外側の要素、即ち肉体からの「愛」です。

私は今それらの愛の「良し悪し」を言いたいのではありません。
何故なら、極めて重要なポイントは「善悪」の問題ではなく、
そこに「永遠の要素」が存在しているかどうかであるからです。

神は永遠の神であり、神が御子の命をさえ代償として、即ち
神が「命がけで」私達に与えようとされたのはその永遠の命、
即ち神御自身の命であったからです。その絶大な価値を
表現する人の言葉はありません。

いずれにしろ神が評価されるのは 唯「永遠と言う要素を持つもの」
だけです。そして神は「その永遠の要素」はただ御子の内にある、
と断言されます。(Ⅰヨハネ5の11)従って私達がその
「永遠の命と言う源」から神と人を愛するならば、
その時神は初めて「私達の愛」を評価されるのです。


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あの「柄沢登兄弟」の妻、良子さんのお姉さんである
渡辺姉妹が今ご病気です。
(それは軽い病であるとは言えないようです)
以下は ある姉妹へ寄せられた渡辺姉妹の娘さんからのメールです:

「いつも母がお世話になっています。無事に手術が終わりました。
本人は感謝と喜びに溢れているようです。
お祈りして頂きありがとうございました。ご安心ください。」

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