2009年8月5日水曜日

「感じる」から「信じる」へ(2)

キリスト者の霊的初期の段階において、主の愛を「感じる」ことは
やはり必要であり、また助けにもなります。その段階においては 
確かにこれは信者が追い求めるべきものでもあります。

しかし、主の愛を感じるという経験の後、ある適切な時間を経過した
後には信者はもはや そのような「感覚にしがみつく」べきでは
ありません。そうでないと彼の「霊の命」は損失をこうむるでしょう。

キリスト者の経験には、その経験の各駅があります。それぞれの駅に
おいて 適正な経験をすることは キリスト者にとって
欠くべからざることです。

しかし、信者が「以前の駅での経験」を最後の駅まで引きずって行こう
とするのならば それは明らかに間違いです。それは 彼に霊的成長
における「停滞」をもたらします。彼の霊的命の成長は
それ以後は期待できないでしょう。

信者が明確に主の愛を感じた後は、もはやそこに いつまでも留まる
べきではありません。たとえどんな境遇に置かれたとしても、
(たとえ、無感動の暗黒の感覚の中に長い間おらせられたとしても
或いは 主に見放されたと「感じた」としても!)
主は キリスト者が「安定して 主の愛を信じ続ける」という更に
高い段階へと進んで欲しいのです。

その理由の故に、キリスト者の初期の行程において、信者に神の愛を
感じさせたあと、直ちに ではなくとも、神は敢えて 彼に、神の愛を
感じさせないようにされます。この事実は 
私達の多くが経験して来たことではないでしょうか。

それは何故でしょう。
それは たとえどんなことがあろうとも 神は「ご自身の愛は絶対に
不変である」ことを しっかりキリスト者に信じさせたい
からに他なりません。

ですから、もしも主の愛を感じる経験の後、信者が突如として 
それまで楽しんで来た愛の感覚を失った時には、その時こそ神は 
「どんな場合にでも ただ神を信じる」という更に高い段階へと 
自分を導こうとしていることに、気づくべきです。それ故に、
喜びの感覚が失われてしまったからといって、
驚ろくにはおよびません。
(先人の言葉より)

☆     

この白い☆印で
先人の言葉と、私の挿入or コメントを区別しております。
何も無ければ、全部先人の言葉です。
★は全く別の目的の私の文です。

0 件のコメント: