2011年2月17日木曜日

エクレシアの看板(かんばん)

さきほど
聖書に暗示(あんじ)されている
模範(もはん)的なエクレシア(教会)の姿
について思いめぐらしていた時 フト
当時 キリスト者たちがよく集まっていた場所に
はたして「お店のような看板」があったのだろうか、と
思わせられた。答えは大きなイナである。

彼等は 時には公共の場で しかし殆ど大多数は
彼等の家々で集まっていた。

その意味は 彼等の礼拝の場所は
「普通の人間生活の場」であった、と言うことである。
(家とは 人間がとても「人らしく」ふるまう場所である)
従って彼等の中の正常なキリスト者たちは あたかも
呼吸でもするかのように 殆ど無意識のうちに、一日中
神を礼拝していた筈である。(呼吸を意識的にする
のは健康によくない。)

そのようにして見ると
ただ天の空気(キリスト)を呼吸することによって生きていた
当時の正常な兄弟姉妹達は 今度は絶えず とても自然に夜昼 
天的な魅力をはき出していた、即ち彼等の持つ呼吸
(空気、即ち霊)は天的吸引力をたたえていたのである。

それだから 当時のキリスト者たちの特徴(とくちょう)とは
とても自然に、しかも強烈(きょうれつ)に
「互いに引きつけ合っていた」と言うことである。
彼等はあたかも「恋人どうしのようであった」に違いないと
私は ほとんど確信している。
そのような彼等が しばしば集まらないでおられようか!

個々のキリスト者が持っていた とても自然な深い吸引力、
それこそが彼等が 人の生活の中心である家々で 
しばしば「集まってしまった」唯一の理由である。(当然 
彼等の魅力の本体は復活のキリスト以外にはあり得ない)

このように考える時 彼等が
ある特別に美しい家を選んで 看板をかかげ、
魅力的な「出し物」を用意、陳列(ちんれつ)し 
周到(しゅうとう)な演出によって
あまり来たくもない不特定多数の人々を
何とか かき集めなければならなかった とは
きわめて考えにくいことではなかろうか。

6 件のコメント:

ピンポンパン さんのコメント...

全く同意です。

いつから教会はこんな形になってしまったんでしょうか、、、

しかし、アメリカでもホームチャーチというものがあちらこちらで存在し始めているんですよ!

PS.漢字のカナをつけてくださって、読むのに助かります~

Mr.Sugar さんのコメント...

既に一世紀 その芽(め)はあった
でしょう。

それは
「キリスト者達を守ってあげよう」という
「人の善意」から始まります。
しかし人の善意はいともたやすく
独占欲、支配欲に変わります。
ですから「人の善意そのもの」に既に
問題の芽があったと言えるでしょう。

結局 「教会の開始と経過の100%」が
「聖霊そのもの」でなければ
そこに人の魂が介入し、いずれそれは
必ず悪臭を放つようになります。
これは法則です。

ごめんなさい、
このことは「ホームチャーチ」でも
原則は同じではないでしょうか。
ことは名称や立場ではないはずです。

解決はどこにあるのでしょう:
私達人の旧創造の総てが 
日々十字架にもたらされる
という実際を
キリスト者が真に学び 
経験することによってのみ
初めて
「あの復活のキリストそのお方」が
あなたの人間関係や街にさえ
出現されます。

その「キリストのリアリティ」さえ
あれば どんな問題も存在し得ない
でしょう。
その「キリストのリアリティ」が
なければ
何の問題解決もありません。

姉妹、
本当に必要なのは 
真に「今生けるキリストのみ」
であるはずです。

今回は
少しキツイ表現になってしまったことを
どうかお許しください。

ピンポンパン さんのコメント...

【少しキツイ表現になってしまったことを
どうかお許しください】

そんな風には感じ取らないのでご心配なく。

善意にある人間の独占欲、支配欲かあ、、理解できます。長年通ったメガチャーチでそれがひどく目につき始め拒絶反応を示すようになりました。結局そこから去りましたが。

確かに、ホームチャーチ、オーガニックチャーチ、シンプルチャーチ(色々な呼び方もあるんです)でも同じ事が言えるのは確かですね。しかしそれらの大多数は’家にある教会’というよりも、単なる信者の集まりという設定のものが多いみたいです。まあその中でも人間は人間だから、支配欲を持ち出す方はいるとも思うけど。

私が他に気になることは、信者側も まるで人が政府を福祉的に頼るように、信者も神との関係を持つに当たって、牧師や教会という施設を頼っている面もあるような気がするんです。 人々がモーゼスに’貴方に神と話をしにいってほしい’と言った様に。 話がずれてしまったらすみません。

エシュコル さんのコメント...

我孫子の様にお互いのキリストの交換、香りを発散出来たら最高ですね。
しかしクリスチャンだからと云って、ただキリストをそっちのけにしての交わりがある所も少なからずありますが、ただの社交的な所ならば世の中にいくらでもありますよね。

モーセも大変な仕事を引き受けていたものです。義父イテロのお蔭で荷は軽くなりました。この助言はもしかしたら、聖霊を表わしているのかもしれませんね。

Mr.Sugar さんのコメント...

ホームチャーチと 外部から呼ばれて
しまうことはやむを得ないことです。

初代 家々で集まっていた人々も
「私達こそ正しいホームチャチなり」等と
言う意識は全く持っていなかったはずです。

彼等はただ互いの中におられるイエスに
強く引き寄せられていたに過ぎません。

私は今アメリカにも
そのような人々が必ずいるであろう
ことを信じ、そのような人々と実際に
触れ合うことを心から願っているのです。

でも実際にはそのような人々は
極めて少ないし、彼等を発見することは
そんなには簡単ではないでしょう。
何故なら彼等は決して自己宣伝など
しないからです。

そこで
ピンポンパンさん、どうでしょう。
「そのような交わり」(Ⅰヨハネ1の3)
をしている
馬小屋の中の「怪しげな博士達」を探して
見てくれませんか。

或は 一つの星が 彼等を導いたのかも
知れません。

Mr.Sugar さんのコメント...

エシュコルさん

我孫子のこと
それはほめ過ぎというものですよ。