2011年2月10日木曜日

何がどうであれ神を信じる

Kさんが亡くなられた。
普通、このような時、キリスト者の反応は
「彼は救われたであろうか」である。しかし、
このような時 私達人のとるべき基本的な態度は
「ただ神を信じる」でありたい。

土から造られた壊(こわ)れやすく 実にはなかい器(人)が、 
「ことばによって全宇宙を創造された創造主」が行われる
全てにクビを突っ込むべきではないし それは 不可能である。
否、それは殆ど滑稽(こっけい)に近いであろう。

存在するもの総てに 
それ独自(どくじ)の分というものがある。
神には神の分があり、人には人の分がある。
人の分とは何か、それは神のお手伝いすること
などではなく、唯神を信じることである。
私達は「何がどうであれ」神を信じるのである。

聖書は実に膨大(ぼうだい)な書ではあるが
そこに書かれてあることを一言でいうならば、
「神は神であるから 神を神としなさい」そして
「神を信じなさい」につきる。

神がそれまでして 
「人に与えた唯一の分が神を信じることである」と
分からせようとしているからには
「信じる」には 人が計りがたい、途方(とほう)も
無い価値があるのではなかろうか。

私達はかの日、この目をもって(実感をもって)
詳細(しょうさい)にいたるまで「かつて時間の中で
神がされたことの完全さ」を知らしめられるであろう。

しかし今この時代においても、私達は「信仰を用い」
kさんを安心してこの素晴らしい神の御手に委ねる事が
出来るはずである。何故ならこの神は いつでも
どんな時でも私達が完全に十分に「信頼するにたる神」
であるからである。

今この時代における「信じることの価値」は 恐らく、
かの日に 実感を持って神の完全さを知ること以上に
大きな価値を持つのではなかろうか。
信仰によって今でさえ私達は知っている、
神のなさることは間違いなく 
完全で美しく またベストであることを。

4 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

「神には神の分があり、人には人の分がある。」

アーメンです。
どれだけ神のお手伝いをするつもりで
神の邪魔をしてきたことか

それにしても神は計り知れない偉大さであります。

Mr.Sugar さんのコメント...

アーメン、

粘土の壷と比べるなら

陶器師は何と偉大でしょうか。

ピンポンパン さんのコメント...

わかります。 
”ただ神を信じる’という姿勢、良いですね。

救われていると証する者が本当に救われているのかどうかも同じように疑えますもんね。

神様がなさることは神様にしかわからないことがあると私も思います。 それに疑いをかけるようなことをするのは私たちの役目ではないですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

ピンポンパンさん、
御理解いただいて 嬉しいです。

当然 私なりの意見、感覚を持っては
絶対にならない ということではなく、

大前提として 人は絶対的に
神を神とするべきである、ということです。

なぜなら人の本能の中に 
「人や自分を神とする」ものが
極めて根強く存在するからです。
にもかかわらずやはり「人は人、神は神」
です。

しかし、実際問題として
「真に神を神とすること」は
そんなにたやすいことではありません。


さてちなみに、私個人の意見を
言わせてもらえるならば、
幾多の証拠から
「Kさんは完全に救われている」と
信じております。