2011年2月6日日曜日

どこでもエクレシア

*ある若夫婦の証し*

今日は妻と一緒に町田にあるリス園に行ってきました。

実は昨日まで風邪を引いていましたが、良くなったので
散歩がてらに 町田からバスに乗って行きました。
リスが放し飼いにされていて、ヒマワリの種をやったり、
リスをおちょくったり、結構楽しめました。
近くには薬師池公園があって、結構大きな池のある公園で
ブラブラして帰ってきました。

こうやって過ごすときでも、何気ない会話の中に、
やはりキリスト話になってしまいます。
可愛らしいリスや池のコイなど見て話しても、結局
キリストなのです。
家にいるときだけでなく、道歩くときも、遊んだりしてる
ときも、景色を見ているときも、コーヒーを飲んでいるときも
ふたりでいるときはエクレシア(教会)なのだと思います。

7 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

アーメンです。

ずっと前にクリスチャンになった方から「クリスチャンなんかにならなければ良かった」とマジ文句言われたことがあります。
「だってそれまで楽しかったことが楽しくなくなってしまった。それまでの友達と飲んで騒いでも、良くそんな意味の買い事でそこまで楽しめる事が不思議で。」

キリストに出会ってからは
ケンカしている時も納得してない時も
イライラしている時でもキリストが互いの中で主である限り、
二人でもエクレシアですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

今日の宗教観念とは
極めてかけ離れたことを言わせて下さい。

キリスト者の一カップルは
それだけで既にエクレシアです。
少なくもエクレシアの最小単位です。

そして
その最小単位は 霊の中に神の御座をさえ
所有しているのであり(ヘブル4の16)
イエス御自身もその交わりの中に
おられます。(マタイ18の20)
以上は神の言葉の断言です。

そして更に
彼らの中にある御座は第3の天よりも高き
「唯一の神の御座」と一つです。

だとすれば、彼等はキリストと共に既に
宇宙の中心ではないでしょうか!
何故なら「父とキリストの御座」は
宇宙の中心であるからです。

ですから総てのキリスト者は
宇宙の中心として 正にそこから 
常に絶えずどんな時でも 
神の業の開始があり得ることを
大いに期待するべきです。

以上のことがもしも
気違いじみた人の誇大妄想でないとすれば、
聖書の基本的な啓示の一つである
ことは確かでしょう。

ピンポンパン さんのコメント...

とっても良い証です。それがクリスチャン、キリスト信者であるということだと私は思いますー全てのことにキリストを見、感じるっでしょうか。

私自身 電気屋さんが書かれたコメントのようにクリスチャンになって人生が退屈で面白くないものになってしまったと思っていた時期がありました。

Mr. Sugarさんがおっしゃったように今にある宗教というものが、私の御霊を苦しめていたのかなあっと。。。

Mr.Sugar さんのコメント...

告白します!

実はきのう
上の小さなコメントを書いたあと
「まずい!一寸表現が入れ込み過ぎた。
これを読んだ人はきっと
引いてしまう に違いない」と
思っていたのに

ピンポンパンはとても好意的に
読んでくださいました。
本当に有難うございます。


ピンポンパンさん、
言わせて下さい、

クリスチャン生活ほど
退屈のミジンも無い
スリリングで、しかも楽しい生活は
他に絶対にあり得ない
と私は断言いたします。

たとえ 一人厳冬の山暮らし
であったとしても。

エシュコル さんのコメント...

と云う事は一人ではエクレシアではない、片手落ちと云う感じですかね?

エシュコル さんのコメント...

薬師池公園の所には多分今もあると思うけど、王国会館があります。彼等も本当は目が開かれれば良いのだけど。

Mr.Sugar さんのコメント...

一人でも 永遠の命を所有していれば
立場としてはエクレシアですが

問題は その実際があるかどうかです。
立場だけでは 全く片手落ちです。

王子の地位や立場が あっても
さらに その実際が必要です。

神が私達を評価されるのは
その点においてです。